NHK大河ドラマ「光る君へ」でロバート秋山竜次さんが演じているのが藤原実資です。当初は、あんなに日焼けした貴族がいるか?と違和感を感じた視聴者もいたようですが、現在では仕事も出来て空気も読める有能な公卿として人気を集めています。では、実際の藤原実資はどんな人物だったのでしょうか?
この記事の目次
キングオブ藤原のサラブレッド
藤原実資は、天徳元年(957年)に藤原北家小野宮流の参議、藤原斉敏の四男として誕生し、祖父の藤原実頼の養子に入りました。小野宮流とは藤原北家、藤原時平の系統で、時平は一度途絶えていた摂関政治を再開させた藤原摂関家中興の祖とも呼ぶべき人物です。この時平の嫡男が実頼で本来なら、藤原氏嫡流になるべき人物でしたが、天皇に娘を嫁がせても男子に恵まれず、逆に異母弟の師輔が天皇に嫁がせた娘には男子が生まれ、その子が冷泉天皇として即位した事から、師輔の一族が藤原嫡流となり、実頼の一族は支流になっていきました。実資は優秀で実頼に可愛がられ、小野宮流の多くの財産を相続されています。このような経緯から、実資は祖父の異母弟である師輔の系統の藤原兼家や子の道長には、複雑な感情を持っていたようです。
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32歳で公卿となるスピード出世
実資は安和2年(969年)に12歳で爵位を受けます。同年に天皇のそば近くに仕える侍従に任じられ、円融天皇のときの天元4年(981年)24歳で蔵人頭に任じられました。この蔵人頭とは天皇の秘書官で、天皇と内密の話も出来る立場であり、公卿に昇進する登竜門です。以後、実資は花山天皇、一条天皇と蔵人頭を務め、頭中将と呼ばれました。これらの功績から永祚元年(989年)32歳で参議となり公卿に列します。
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仕事が出来た実資
実資がトントン拍子で出世したのは家柄もさることながら有能な官僚だったからでした。実資の小野宮流は「有職故実」つまり朝廷の儀礼や古いしきたり、前例を記録している家で非常に儀礼に詳しく、的確な判断が下せるので、周囲は実資を頼ったのです。実資は儀礼ばかりでなく現実の政治にも通じていて、部下の失敗に厳しい叱責を加える一方、起きてしまった事は仕方がないとして部下を過剰な批判から守り最終責任は自分が負うなど、臨機応変で柔軟な対処をしたので、とても信頼されました。実資は、複雑な問題が起きても、問題の要点を押さえて対応し、個人の私欲や名声のために真実を覆さない公平な人物であり、そのため政敵であった藤原道長や道長の子頼通も、親しく実資に相談を持ちかけています。
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藤原道長相手でも筋を通す
実資が公卿に列した翌年、正暦元年(990年)一条天皇の外祖父として権力を振るった藤原兼家が没すると、子の道隆が関白となりますが、僅か5年で病死、さらに道隆の弟の道兼も疫病で関白就任から七日で死去すると、兼家五男の道長が右大臣となり、道隆の嫡子、伊周との政争に勝利し左大臣に昇進。父の兼家以上の権勢を振るうようになりました。多くの貴族が道長の機嫌を取り、言いなりになる中で良識派の実資は筋を通し続けます。
長保元年(999年)道長の娘の彰子が一条天皇の中宮として入内します。道長は嫁入り道具として四尺の屏風を作らせると当時の公卿名士たちから和歌を募集しました。当代一の権力者である道長の募集に対し、公卿ばかりか花山法皇までも歌を贈りましたが、中納言実資だけは「大臣の命令で臣下が歌を贈るなど前代未聞であり承知できない」として、何度、道長が催促しても歌を贈りませんでした。暗に調子に乗るなと批判された形の道長ですが、実資を追い落とす事はなく、実資は長保3年(1001年)44歳で権大納言に任じられ右近衛大将を兼任、以後、晩年までの42年間、実資は右近衛大将の地位にありました。
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皆が天皇を見捨てても筋を通す
寛弘8年(1011年)一条天皇が崩御し三条天皇が即位します。三条天皇は36歳での即位で関白に政治を委ねるような年齢でもなく、また道長の娘との間には男子が生まれなかったので道長とは決定的に不仲でした。三条天皇は、道長の娘を差し置き、嫡男の敦明親王を産んだ藤原娍子を皇后にしようとしますが、道長の機嫌を恐れて言い出せずにいました。ところが逆に道長の方から娍子を皇后に立てるよう提案があったのです。
喜んだ天皇は立后の日取りを決めますが、これは道長の底意地の悪い罠でした。道長は立后の当日に理由をつけて自分の娘の妍子がいる東三条第に行ってしまい、公卿も道長にへつらって天皇に背を向けました。三条天皇は勅使を東三条第に派遣して道長に参内を命じますが道長は拒否。公卿は勅使を嘲って笑い、瓦礫を投げつける者までいました。孤立して屈辱に耐える三条天皇ですが、道長の行動に憤慨した実資は病気だったにも関わらず、「天に二つの太陽なく、地に二人の主なし」と呟くと参内し中納言藤原隆家と共に儀式を取り仕切ったのです。三条天皇は、実資の公平な態度に感動したそうです。
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常に道長と対決したわけではない
権力者道長に対しても筋を通した藤原実資ですが、常識人のバランス感覚として、天皇の外戚として権力を振るう道長に対して、常に敵対するのが得策ではない事も知っていました。また実資は道長とは対照的に男子に恵まれず、女子しかいなかったので養子とした藤原資平への家督継承と領地温存のため、道長や頼通親子に柔軟な対応も取っています。特に実資は道長の子の頼通に非常な好意を抱いていて、夢の中で頼通を抱き、朝起きると股間がファン・ビンビンだったと「小右記」に赤裸々に書いているそうです。
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道長の死後も生き続け90歳で大往生
治安元年(1021年)実資は右大臣となり皇太弟傅を兼任、長暦元年(1037年)従一位に昇進します。個人としては位人臣を極めた実資ですが、正室の婉子女王との間には子が産まれませんでした。特に晩年認知症が進行してから実資は焦りのために手当たり次第に女に手を出していたそうで、仲の良かった頼通を嘆かせています。
結局、実資の実子は女子の千古1人で、やむなく兄、権中納言藤原懐平の子、資平を養子としましたが、実資は資平には財産をほとんど相続させず、実娘の千古に与えています。この千古は道長の孫である兼頼に嫁ぎ娘を産みますが、実資よりも先に死去し、相続された財産は道長の御堂関白家に移る事になりました。永承元年(1046年)実資は90歳で死去します。信仰心厚い仏教徒だった実資ですが、出家して隠居生活を送る気は全くなく、死ぬ直前まで俗世にいて働く事を望んでいました。実資の臨終が伝わると屋敷の小野宮第には身分を問わず大勢の人々が集まり、声を挙げて泣いたと言われています。実資がどういう人であったか、この話からもうかがえ知れますね。
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日本史ライターkawausoの独り言
藤原実資は、本来藤原北家の嫡流だった実頼の養子になった事から、嫡流を奪った九条流の藤原兼家や道長には対抗心があったようです。しかし、それ以上に実資は公正を重んじ、えこひいきを嫌い、私情を排し正しい事をしようという精神がありました。その性格の為に困難に陥った事もありましたが、常に公正に正しくあろうとする実資の姿勢はライバル達にも伝わり、逆に尊敬を受け足を引っ張られる事を回避した面もあるでしょう。「正直は宝」というのは平安時代も現在も、一面の真実ですね。
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