2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」に登場し、高貴なゲスとして人気を集めているのが花山天皇です。この天皇、政治的には無能なのですが、とにかく凄まじい女好きであり、最愛の妻が死んだ時には出家すると言い出して、そのせいで藤原兼家の陰謀により本当に出家に追い込まれてしまいます。
また出家した後は仏門に入り法皇にまでなりますが、女好きは治らず、長徳の政変の原因を造ってしまいます。今回は、女好きでトラブルを起こしまくった花山天皇について解説しましょう。
この記事の目次
冷泉天皇の第一皇子として誕生
花山天皇は諱を師貞と言い冷泉天皇の第一皇子として誕生しました。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘、懐子です。安和2年(969年)父冷泉天皇の弟叔父である守平親王が即位して円融天皇となると生後10ヶ月で東宮(皇太子)に立てられました。こんなに早く皇太子に指名されたのは、当時の摂政で外祖父の藤原伊尹の威光によるものであるようです。永観2年(984年)15歳の時に円融天皇の譲位を受けて花山天皇として即位します。関白の地位は円融天皇の時代に引き続き、藤原頼忠が着任しますが、政治の実権を握ったのは、天皇の外叔父、藤原義懐と乳母子藤原惟成でした。
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義懐と頼忠、兼家の権力闘争
実権を握った藤原義懐と藤原惟成は、荘園整理令の発布や貨幣流通の活性化、物価統制令、地方の行政改革、武装禁止令など革新的な政治改革を実行します。しかし革新的な改革は円融天皇以来の守旧派である関白頼忠との摩擦を引き起こしました。また、花山天皇の東宮は円融天皇の子である懐仁親王でしたが、懐仁親王の外祖父は右大臣の藤原兼家で、老齢の兼家は、一日でも早く花山天皇を退位させ、外孫である懐仁親王の即位を願っていました。こうして朝廷では義懐・惟成と関白頼忠、右大臣兼家の三つ巴の権力闘争が起きていたのです。
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最愛の女性の死に出家を決意
花山天皇は生涯を通じて女好きであり恋愛のトラブルで人生が翻弄された人物でした。天皇は即位して間もなく、藤原為光の娘、藤原忯子に心を奪われ何としても女御として迎えたいと要望します。藤原義懐の正室は、藤原為光の娘で忯子の姉でしたので、天皇は義懐に為光を説得するように命じます。為光は義理の息子である義懐の説得に折れて、忯子を宮中に入内させました。花山天皇の忯子への寵愛は深く、忯子は間もなく懐妊しますが、寛和元年(985年)17歳で死去しました。花山天皇は最愛の妻の死に激しく動揺し、出家して忯子の供養をしたいと言い始めます。しかし、義懐は長年の付き合いから、出家願望が天皇の一時の気の迷いだと知っていて、関白、藤原頼忠と共に天皇に出家は時期尚早と説得します。
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藤原兼家が花山天皇を出家に導く
一方で、藤原兼家は花山天皇が出家したがっているのをチャンスと見て、息子の藤原道兼に命じ花山天皇をそそのかして出家させようと画策します。寛和2年(986年)道兼は心細さで出家を躊躇する天皇に対し、心底同情している素振りを見せ、天皇が出家するなら私もお供すると嘘をつき、夜中に内裏から元慶寺に天皇を連れ出そうとします。天皇は月が明るく出家するのが恥ずかしいと躊躇しますが、その時、たまたま雲が月を覆い隠したので、出家は天命と思い直して禁裏を出たそうです。
この時、邪魔が入らないように鴨川の堤から天皇を警護したのが、清和源氏の源満仲とその郎党の武士団でした。ちなみに源満仲の子孫からは鎌倉幕府を起こした河内源氏の源頼朝が出ています。天皇が寺に向かったのを見届けた兼家は、子の道隆や道綱に命じて三種の神器を禁裏から皇太子の屋敷である凝華舎に移させると内裏の諸門を封鎖し、天皇の退位を宣言し、懐仁親王を禁裏に迎えて一条天皇として即位させます。一方の道兼は、天皇が髪を剃るのを見届けた後で、父親である兼家に事情を説明すると言い残して寺を離れ、二度と戻ってきませんでした。ここで天皇は自分が欺かれた事を知り愕然とします。
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花山天皇、欺かれた事を受け入れ上皇となる
同じ頃、内裏から消えた天皇を探していた義懐と惟成は元慶寺で頭を丸めた天皇を見つけ、自分たちが兼家に政治的に敗北した事を悟り、天皇に付き合い髪を剃って出家しました。この出来事を寛和の変と言います。花山天皇は在位2年、19歳で天皇の地位を追われ花山上皇となりました。
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仏門に入っても女性トラブルを起こす
出家した上皇は、比叡山延暦寺に登って戒壇院で灌頂を受けて受戒を受け法皇となります。そこから十年近くも西国各地を巡礼し、強力な法力を身につけたとする話もありますが、生来の女好きは収まらず、京都に戻ると法皇の身でありながら、愛人を複数人造り、公然と屋敷に通うようになりました。そして、この花山法皇の女好きが大事件を引き起こす事になります。
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花山法皇、藤原伊周の嫉妬を受ける
長徳2年(996年)29歳になった花山法皇は、故太政大臣藤原為光の娘、三の君と同じ屋敷に住んでいた四の君の所へ通い出していました。余談ですが、この四の君は花山法皇がかつて寵愛した藤原忯子の妹でした。下世話な言い方をすると姉妹どんぶりという事ですが、法皇は母と娘を同時に妻とし2人を懐妊させる母娘どんぶりをやった人なので特に問題なしだったのでしょう。
しかし、法皇の行動は、当時の朝廷の実力者である藤原伊周の嫉妬を買う事になります。この頃、伊周は藤原為光の娘、三の君の屋敷に通っていたのですが、ここに花山法皇が通い出したと聞いて、法皇が三の君を寝取ったと勘違いしたのです。怒り狂った伊周は弟の隆家に相談しますが、これが大間違いでした。血の気の多い隆家は、すぐに従者の武士団を引き連れて女の家に向かう花山法皇の一行を待ち受けて襲撃。その時、武士の1人が威嚇のつもりで花山法皇に矢を射かけ、それが逸れて法皇の着物に命中してしまったのです。
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藤原道長がライバル伊周を追い落とす
文字通り花山法皇に弓を引く形となった隆家と伊周ですが、法皇はこの事を訴え出ようとはしませんでした。理由は仏門に入った身でありながら複数の愛人を囲っている事実が京都中に知れ渡る事を恐れたからです。同じように伊周と隆家も沈黙し、事件は闇に葬られるかと思われました。しかし、この事件を聞きつけ拡散する人物が出現します。当時、藤原伊周と藤原氏長者の地位を競っていた藤原道長です。
道長が意図的に触れ回った事で、間もなく京都では花山法皇と藤原伊周が愛人を巡って騒動を起こし、藤原隆家の雇う武士が法皇の衣の裾を射抜いた事実が明るみに出ます。道長は自ら懲罰委員会を組織して真相究明に当たり、伊周は大宰府に隆家は出雲に流罪となりました。こうして道長は長兄、藤原道隆の息子達を追い落とし、藤原氏長者として権力の頂点に立ったのです。
寛弘5年(1008年)41歳で崩御
自身の女好きが災いし、藤原氏同士の権力闘争を引き起こした花山法皇は、寛弘5年(1008年)2月、花山院の東対にて41歳で崩御します。死因は不明ですが、悪性の腫瘍が出来たためと考えられているようです。花山法皇には、清仁親王と昭登親王という2人の皇子がいましたが、2人とも天皇が出家した後に誕生した事と、清仁親王の生母と昭登親王の生母が実の母娘という複雑すぎる事情もあり、ついに出世に恵まれる事はありませんでした。花山天皇の桁外れの女好きは、子孫の運命にまで影響を与えたのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
生来の女好きで政治的には無能であった花山天皇ですが一方で、絵画や建築、和歌などの芸術的才能には恵まれていました。特に和歌の作成には熱心で、在位中に内裏で歌合を開催「拾遺和歌集」を自ら選び、「拾遺抄」を増補するなど、文化面では功績も残しています。政治についても、外戚である藤原義懐と藤原惟成が無能な天皇を補佐していたので、大きな混乱も起きませんでした。もっとも、在位期間が2年なので政治的な欠点が表に出る前に辞めただけという見方も出来るかも知れませんが…
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