『逃げ上手の若君』で注目される鎌倉時代ですが、実は武士の「暴力」がすべてを支配する、非常に荒れた時代でした。
この記事の目次
「バーバリアン」だった鎌倉武士
鎌倉時代、西国の京都を天皇や公家が支配していたのに対し、東国の鎌倉は武士階級が支配していました。この東国武士たちは、つい最近まで読み書きもできず、野原でイノシシなどを狩って暮らしていた人々でした。彼らはその圧倒的な「暴力」を朝廷に見込まれ、反乱の鎮圧などに雇われて恩賞を得ていた、いわば「バーバリアン(野蛮人)」だったのです。
- 鎌倉幕府が成立すると、この「バーバリアン」たちがにわかに権力者となりました。
- 彼らにとっては、自らの「暴力」こそが権力そのものでした。
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やりたい放題の武士と「御成敗式目」
権力者となった武士たちは、その暴力を素直に(?)発揮し始めます。他の武士の領地に攻め込んだり、気に入った女性がいれば街中でもかまわず連れ去ったり、果ては坊主やホームレスを弓矢で射殺したりと、まさに「やりたい放題」でした。
- 見かねた鎌倉幕府の執権・北条泰時は、武士が守るべき掟として「御成敗式目(貞永式目)」を制定しました。
- ここには「憐れみを持ち、民をいたわり、主君に忠義を尽くす」という、武士の「理想像」が初めて明記されました。
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【まとめ】鎌倉武士は「御成敗式目」によって理想化された
御成敗式目にわざわざ「民をいたわれ」と書かれたことの裏を返せば、それが浸透するまで、武士は「ただの野蛮人」だったということです。鎌倉時代は、暴力が支配するカオスな時代から、法律によって理想の「武士像」が作られていく過渡期だったのですね。
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Q&A:よくある質問
Q. 鎌倉時代の武士は、どんな人たちだったのですか?
A. 元々は読み書きもできず狩猟生活をしていた人々で、その「暴力」を見込まれて反乱鎮圧などに雇われていた「バーバリアン(野蛮人)」でした。
Q. なぜ「御成敗式目(貞永式目)」が作られたのですか?
A. 権力を持った武士たちが、領地を奪ったり、人を殺したりと「やりたい放題」になったため、執権・北条泰時が彼らを律するためのルール(掟)として制定しました。
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