個人的にも前々からずっと気になっていたことがあります。挙兵した源頼朝のところに、弟の源義経が颯爽と現れ、軍事面での才能を続々と発揮して平氏を滅亡に追い込んだことは、歴史で習うとおり。
しかし、源義経が「颯爽と現れていなかった」ら、歴史はどうなっていたのでしょうか?
この記事の目次
「義経なしでも頼朝はやっていけたし平氏は滅亡した」という人も多い中、もう少し深読みしてみる
このようなイフを考えようとしたとき、よく言われる意見があります。
・義経は戦術的には優れていたが戦略家ではなかった。
・いっぽうの頼朝は優れた戦略家だった。
・そして一般に、優れた戦略家は優れた戦術家に優る。
・義経がいなくても頼朝は他の手駒をうまく使う度量に長けていた。
・ゆえに義経がいなくても、頼朝の能力があれば時間はかかっても平氏を倒すことはできた
と。
たしかに、リアルに考えたときの、有力な一意見です。そもそも、私もかつて、そう思っていました。しかしその私に、もう少し慎重に考えさせてくれたきっかけとなったのが、『源義経』(五味文彦/岩波新書)に記載されていた、平氏追討軍の「兵糧事情」についての考察でした。
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範頼が手紙の中で悲鳴をあげていた?平氏追討軍の生々しい内部事情
まずは上記の参考文献から、元歴元年十一月、源範頼が源頼朝に宛てたとされる手紙の内容を見てみましょう。
その手紙には、
・兵糧が欠乏しているため士気が急激に下がっている
・諸将の考えもなかなか一致しない
・軍の過半数は脱走して国に帰りたいと思っている様子
などなど、かなり深刻な報告が記載されております。
よく考えると、それもそのはず。源氏側の平氏追討軍は、東日本からの遠征軍。かつ、この段階では、まだ源頼朝の覇権は確定していませんから、様々な地方から参じた武士たちの、寄り合い所帯のようなものでした。
つまり、もし思惑が違ったり、戦略が行き詰まったりした暁には、いつ仲違いから離散してもおかしくない軍勢。いっぽうの平氏側はもともと瀬戸内海をホームとしている勢力。利点は平氏側にありました。おまけに、慢性的な兵糧不足という点があります。
どんな時代でも、「遠征」というものをやると、ついてまわるのが「兵糧」という制約条件。これが平氏追討軍にも深刻なリスクとして顕在化していたようです。すなわち、源頼朝としては戦が長引けば長引くほどリスクが増大化する状況でした。
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兵糧問題も諸将の仲違いも解決してしまった義経の電光石火
こういう場合、状況を突破するには、とにかく華やかな連戦連勝を飾り、その勢いで遠征を一気に解決に持ち込むべきです。もちろん、こんなことは「言うはたやすし」の世界。そううまく行けば誰も苦労はない。
というところに。なんと、源義経はまさに電光石火で、続々と連戦連勝を重ねたわけです。頼朝にとってまことにありがたいことに、兵糧問題も諸将の仲違い問題もあっけなく解決してくれました。そう、究極の解決策、「問題が拡がる前に、電光石火で勝つ」です。
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義経がいなかった場合、平氏追討軍が二次三次と長期化した?
もし義経がいなかったら?
兵糧事情による時間切れが切迫化し、遠征軍はいったん解散、ということもあり得ました。解散した上でいったん東日本の基盤を固め直すのか、それともせっかく占領した畿内の支配をしっかりと固めて、ここを対平氏の軍事・政治拠点とするか。
いずれにせよ源平合戦はすぐに決着せず、平氏追討軍は、第二次、第三次と編成され、天下を二分する戦いは何十年も続いてしまったかもしれません。これは早々に武家政権としての足元を築きたい頼朝には最悪のシナリオでした。
こうしてみると、史実において、軍事に優れた弟が、やるべきことをやってほしい形ですべてやってくれたことは、源頼朝にとってたいへん幸運なことでした。
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まとめ:頼朝にとって義経にはもうひとつ「おいしい」点があった?
しかし、ここでもうひとつ、いやらしい見方をしてみましょう。もし源義経がいなかったら、そのために決着がなかなかつかず、平氏追討について、第二次、第三次と長期化すれば、何が起こっていたか?
この場合、源頼朝自身が、平氏追討の軍事面の指揮も執らなければいけないことになっていたでしょう。
そして戦後処理の責任や、論功行賞の不平不満や、旧平氏寄りの勢力からの恨みも、すべてが頼朝一人に集中してしまいます。
源頼朝は、より独裁的で、内外に敵対者も多い、苦悩する将軍となっていたかもしれません。
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日本史ライターYASHIROの独り言
翻って見ると。史実では、源義経がいたからこそ、源頼朝は、源平合戦終了後、義経をいじめぬき切り捨てることで、戦後処理に伴う利害関係や感情のもたれを、ズバッと整理することができたともいえます。
頼朝自身としては、義経一人を粛清すれば、平氏追討作戦中に不満をもった武将や、戦争に巻き込まれて被害をうけた土地の領主たちにも、「あれは自分の不出来な弟がやったことで、その始末は兄である私がつけた」と言えば、戦争中の厄介なもめごとはリセットできます。
頼朝にとって義経が重要だったのは、義経が平氏に勝っても負けても、スケープゴートとして切ることで自分に有利になるからでは?よくよく考えると、頼朝にとって義経は、どのみち戦後には理由をつけて粛清するつもりでいた、「実においしい弟」だったのでは?そこまで深読みするのは、いささか、頼朝にとってイジワルな視線すぎるでしょうか?でも、もしかすると?
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