一遍智真と一向俊聖は出会っていたの? 元祖「遊行上人」は、一向の方だった?

02/05/2026


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

蒙古襲来絵詞

 

 

鎌倉時代中期、日本国内は、度重なる天変地異や感染症の蔓延に加え、「蒙古襲来(元寇)」という国難に見舞われていた時代でした。そんなとき、一般庶民たちの心の救済のために動いた僧侶たちが幾人もいました。その中で、今回は、似た経歴を持つ二人の僧侶に注目します。

 

 

一遍上人(坊主)

 

 

「一遍智真」と「一向俊聖」です。この二人は、「仏教」を広めるために全国行脚するという「遊行活動」と、各地で「踊念仏」を行ったことで知られています。両人は、同時代に生まれ、しかも同年齢だったので、長い歴史の中では混同されていた経緯もあったようです。歴史上では一遍の方が有名だったため、一向は一遍のことだと間違われきたようです。

 

一遍智真は、伊予国(現在の愛媛県)の生まれで、一向俊聖は、筑後国(現在の福岡県南部)の生まれであり、故郷は別でしたが、両人ともに武家の出身だったという共通点がありました。似た経歴を持つため、二人は会っていたのではないかとも想像したくなりますが、それを示す証拠の資料はないようです。

 

日本史ライター コーノ

 

しかし、会っていたのではないかという興味深い説があるので、ご紹介します。どうぞご一読ください。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 ほのぼの日本史レポート引用について



一遍智真の歩んだ道

河野一族から出家し僧侶になった一遍上人

 

まず、一遍の歩んだ道を辿りますと、四国の伊予国で生まれ育ち、十歳を過ぎた頃から、仏門に入り、九州・太宰府にて十年修行しました。その後、四国の故郷に戻り、還俗し、数年を過ごした後、33歳に再度出家し、36歳より遊行の旅へ出ています。周った地域は、九州、京の都や四天王寺(摂津国/現・大阪府)、紀州の熊野、信州の善光寺、関東の鎌倉、奥州の平泉などです。

 

 

 

 

最後は瀬戸内海地域まで戻ってきて、兵庫和田岬の観音堂(現・神戸市)で臨終を迎えています。まとめますと、一遍の歩んだ道は、幼少期から大人になり、修行を終えるまでは、四国から九州 など西日本中心を巡っていましたが、遊行を始めからは、鎌倉や信州から東北の平泉へと東日本、北日本中心に巡っていた印象なのです。

 

 

関連記事:元寇で傷ついた武士を救った一遍上人!温泉と念仏で人々を救った驚きの功績

関連記事:一遍上人は八幡神を信仰していた? 八幡神は国の神だったから?

 

元寇

 

 

 

一向俊聖の歩んだ道

日本史01 織田信長のポイント解説

 

次に、一向俊聖の歩んだ道を辿っていきます。出生地は、九州の筑後国(現在の福岡県南部)の竹野荘西好田という地でした。出家して仏門に入り修行を始めてからは、播磨国(現・兵庫県南西部)の「書写山」や畿内の「南都」(古都の奈良)そして、関東の鎌倉へと転々とします。

 

 

 

「遊行」を始めると、九州の薩摩国(現・鹿児島県)に向かい、「大隅八幡宮(現在では、鹿児島神宮)」にも参詣したということです。

 

 

その後、豊後国(現・大分県)の「宇佐八幡宮(現在の宇佐神宮)」に参詣し、そこで、四十八夜も連続で、踊り念仏を行ったと伝わっています。九州遊行後は、四国や中国地方の諸国を周ったようです。瀬戸内海の山陽地域から日本海側の山陰地域を通り、北近畿から畿内の京の都を目指したようです。

 

京の都に入ると、古跡霊場を周ったと言われています。その翌年には、北進して北陸地方の金沢まで向かったのですが、金沢では旧来の仏教宗派の僧侶たちの反発があって、南の近江国(現・滋賀県)まで戻ってきたようなのです。そして、米原の地にある寺院(現在の「蓮華寺」)で最期を迎えたと言われています。まとめますと、一向俊聖の修行地は関東の鎌倉でしたが、遊行を始めてからは、西日本中心を巡っていた印象です。さらに言えば、山陰から北近畿や北陸などの日本海側を丹念に巡っていた印象が強いのです。

 

関連記事:【遊行上人】一向俊聖とはどんな人?一遍智真と間違われてきた僧侶

関連記事:若き日の一遍上人、捨聖への壮絶な道のり【若き日々の秘話を暴く】

 

 

一遍と一向の両人はどこで会っていたのか?

一遍と一緒に踊り狂う庶民

 

さて、一説には二人は会っていた可能性があるとのことなのですが、何処で会っていたのか?と気になるところですね。これまで、色んな説が登場しました。中でも興味深いのは、浄土宗研究者でもあった「宝田正道」の説です。宝田氏の説を参考にすると、1275年(建治元年)に四国の何処かで会ったのではないかということです。中でも、「讃岐(香川県)」の地で会っていた可能性が強いと考えられます。

 

その理由は、その年に、一向が、九州から舟で四国の讃岐を目指し、難破しそうになりながらも、讃岐に上陸したと記された文献があるからです。それが史実だったなら、一向は、1275年(建治元年)に讃岐を遊行したということなのです。一方、一遍は、同じ年に、畿内(近畿地方)から故郷の四国・伊予を目指していました。その時、四国を通過したとすれば、讃岐を遊行していた可能性があるということなのです。それならば、讃岐にて、両人が相まみえた可能性もあるということです。

 

また、その他の資料では、『一向上人縁起絵詞』【1470年(文明2年)刊行】によると、九州の筑前で会っていたとか、さらに、江戸期の元禄年間に刊行された『本朝高僧伝(巻15)』には、「賀茂神社」(京都の「上賀茂神社」のことか)にて両人が共に参詣したという記述があるとのことです。

 

関連記事:熊野信仰の正体とは?歴代上皇も一遍上人も崇拝した熊野信仰の秘密

関連記事:水軍の血を引く僧「一遍上人」の壮絶な出生秘話とは?武家の血を継ぐ男の物語

 

 

一遍と一向は協働していた?

日本史02 徳川家康のポイント解説

 

何れにしても、それらの何処かで面会し、示し合わせて別経路で遊行していたかもしれないと想像できるのです。お互いの遊行経路は極力重ならないように計画したというのです。一見重なっているように見えても、それは逆方向に歩んでいるので、お互いの経路を補完し合うように遊行しているということです。

 

(二人の足跡を時系列で整理してみると、興味深い事実が見えてきます。一見バラバラに見える二人の動きが、どの時期にどこで交差、あるいは補完し合っていたのか。以下の比較表から、その緻密な関係性をぜひ確認してみてください。)

 

 

【二人の遊行経路を図式化してみました。参考にしてみてください。】

⚫️(黒丸)は、一向俊聖の足跡で、

◯(白丸)は、一遍智真の足跡です。

 

 

 

分かってくるのは、一向俊聖の方は、遊行を始めてからは、主に西日本中心に巡っていたということです。しかも、山陰地方や北近畿、北陸など、日本海側を丹念に巡っている印象です。比べて、一遍智真は、遊行開始後、九州から瀬戸内海地域、近畿地方、中部地方、関東、東北など、広範囲に巡っている印象ですが、日本海側は、それほど多くは巡っていない印象です。

 

しかし、ある時を境にして、一遍の遊行経路が日本海側に向いたことがありました。それが、1285年(弘安8年)でした。この年は、一向俊聖が死去したかもしれないと伝えられている年なのです。その経路を見ていると、あたかも一遍が一向の死を知り、一遍が一向の代役も引き受けていたかのような動き方に見えるのです。

 

関連記事:鎌倉時代の僧「一遍」が遺したのは盆踊りだけではない!一遍上人が未来に残した衝撃の文化遺産

 

おわりに

踊り念仏を広めた一遍上人

 

何れにしても、一遍智真と一向俊聖の二人が会っていたことが確認できる資料や遺物は発見されていないのですが、会っていたと考えた方が、似た経歴を持つ二人なので、納得しやすいというものです。そして、一向の方が、一遍よりも先に遊行を始めた形跡があることから、一遍は、一向から学んだかもしれないという物語も想像できそうです。一向俊聖こそ、元祖・遊行上人と言えなくもないのです。

 

西行法師 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士であり、僧侶、歌人

 

ただ、当時、遊行活動をしていた僧侶は数多くいたと言われています。あくまで、両名はその内の一人であったということです。それでは、遊行者の先駆けとしての存在は誰かと言えば、例えば、「西行法師」や「弘法大師(空海)」、さらに、「空也上人」、「行基菩薩」が思い当たる訳です。

 

こちらもCHECK

西行法師 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士であり、僧侶、歌人
西行法師とはどんな人?将来有望の若きエリートが出家!平安の民をザワつかすカリスマ坊主を解説

続きを見る

 

 

一般的な歴史書では、遊行の先駆者たる存在として、奈良時代に、東大寺の大仏造立に貢献した「行基」が挙げられることがあります。しかし、その行基が巡った以上に、広い範囲を行脚していたと伝えられているのが、「空海」です。空海は、平安時代の初期に、日本各地の広い範囲を行脚していました。ただ、伝説として残っている「(日本)全国行脚」したというのは、あくまで「伝説」の域を出ないということです。

 

関連記事:【一遍の弟は水軍武将!?】伊予河野一族と聖戒・仙阿、知られざる兄弟の絆とは

 

一遍上人

 

 

日本史ライターのコーノの独り言

コーノ 日本史ライター

 

とはいえ、空海が確実に行脚したと言われる地域は、かなりの広範囲に渡ります。四国、九州、畿内(近畿地方)、そして、海を越えた中国大陸の「唐」にまで渡っているのです。空海こそが遊行の先駆者という見方もできます。一遍と一向の両名にとって、尊崇の念が強かったと考えられます。

 

さらに、空海の生まれ故郷は、四国・讃岐の「善通寺」であることから、一向と一遍が、その讃岐で会ったかもしれないという説は、あり得ることで、運命的なものを感じさせます。空海が結びつけた縁のような気がしますし、空海の影響力の大きさも強く感じます。

 

【了】

【参考資料】

・『日本の歴史 8 蒙古襲来』黒田俊雄 著(中央公論新社)

・『一遍仏教と時宗教団』長澤昌幸 著(法蔵館)

・『踊念仏』大橋俊雄 著(筑摩書房)

・『一向俊聖上人讃仰』内に収録 宝田正道 著 論文大橋俊雄 編 (一向寺 発行)

遊行寺のWebサイト

奈良県のWebサイト

玄海町のWebサイト

など

 

関連記事:真教上人の正体とは?「遊行上人」一遍の影にいた立役者(一番弟子)

関連記事:一遍上人は庶民の娯楽を増やした!熊野参詣を広め、芸能人を養成した?

 

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kono

コーノ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

-鎌倉時代
-,