戦国時代に登場した数々の「主君と部下」の関係の中でも、豊臣秀吉が一代で築き上げた「秀吉軍団」の人材層の厚さは、いささか異次元なレベルです。
柴田勝家や丹羽長秀といった織田譜代の重臣たちと異なり、家柄や土着の知名度を持たなかった秀吉が、いったいどのようにして、このような異才を揃えることができたのでしょうか?
この記事の目次
- 織田軍最強の「混成部隊」を率いた秀吉の謎
- 叩き上げの秀吉に、なぜ超一流の軍師が集まったのか
- 「人たらし」という一言では片付けられない秀吉の狂気
- 竹中半兵衛が「信長」ではなく「秀吉」を選んだ理由
- 「三顧の礼」に隠された、相手のプライドを重んじる交渉術
- 無欲な天才・半兵衛が、秀吉の「野心」に見た夢
- 黒田官兵衛の野心を「忠誠」に変えた一通の手紙
- 幽閉された官兵衛を救った、秀吉との深い信頼関係
- 「弟のように思っている」相手の懐に飛び込む殺し文句
- 「二兵衛」の個性を衝突させないチームビルディング
- 静の半兵衛、動の官兵衛。役割を明確化するアサインの妙
- 組織の風通しを良くする「情報の共有」と「権限委譲」
- 秀吉流・人心掌握術の核心:相手に「恩」を着せない与え方
- 恩賞は「金銭」以上に「名誉」と「チャンス」を
- 失敗を責めず、次の「勝ち」をイメージさせるポジティブ心理学
- 現場第一主義!足軽の心を掴んだ「共感」の力
- 千利休や豊臣秀次に見る、人心掌握の「賞味期限」
- 現代ビジネスに活かす「秀吉式マネジメント」
- 日本史ライターYASHIROの独り言
織田軍最強の「混成部隊」を率いた秀吉の謎
そもそも「秀吉軍団」の顔ぶれは、各々の出身地も出自もバラバラ。まさに秀吉個人に見出された人材による、混成部隊というところです。しかしそれは決して私的なお友達グループなどではなく、「今孔明」と謳われた竹中半兵衛、「両兵衛」と並び称された黒田官兵衛など、超一流の人材が加わっていたのです。
叩き上げの秀吉に、なぜ超一流の軍師が集まったのか
バックグラウンドのない秀吉が、能力も知名度も申し分のない竹中半兵衛や黒田官兵衛のような人材を、どのように手下に加えていったのでしょうか?今回は、それを詳しく見ていきたいと思います。
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「人たらし」という一言では片付けられない秀吉の狂気
ところで、こうした人材集めの巧みさを説明するのに、歴史小説などでは、しばしば「秀吉は、人たらしの天才だったから」と説明されます。ですが、「人たらし」とヒトコトで言っても、単に口がうまいだけ、あるいは、仁義に厚いだけでは、戦国時代でも突出した軍師たちが命を預けるほどの信望を寄せることは、なかったでしょう。単なる表面的な話ではなく、ついてくる相手にも実利的なメリットがきちんとある、そのようなつきぬけた「人たらし」でなければ、厳しい戦国時代に生きる猛者たちを手なずけることはできません。
竹中半兵衛が「信長」ではなく「秀吉」を選んだ理由
まず、竹中半兵衛のケースを見ていきましょう。というのも竹中半兵衛とのエピソードで既に、他の戦国大名がいかにしても動かせなかった変わり者の心を、秀吉は、みごとに動かす手腕を発揮しているからです。
「三顧の礼」に隠された、相手のプライドを重んじる交渉術
もともと竹中半兵衛は、美濃の斎藤家に仕えていた人物でしたが、さまざまな事情から、隠棲生活を過ごしていました。実は織田信長自身からの仕官の誘いもあったのですが、半兵衛はこれを断っていたと伝えられています。
無欲で功名心を持たない、ちょっとした変人の風格もある半兵衛は、信長にかぎらず、もはやどこの大名にも仕えることなく、田舎暮らしでゆっくりと余生を過ごすつもりだったのかもしれません。ところが秀吉が、三国志の諸葛孔明の故事になぞらえた「三顧の礼」で接すると、最終的に、半兵衛は応じました。
無欲な天才・半兵衛が、秀吉の「野心」に見た夢
信長には動かせなかった心を、どうやって秀吉は動かしたのでしょうか?信長の誘いを断った半兵衛が、名誉や立身出世のために動いたとは思えません。おそらくは、秀吉の説得には、単なる出世や野心ではなく、既存の戦乱の時代を突破し新しい秩序を生み出すような青々とした夢があったのではないでしょうか。
秀吉は年を取ってからの言動で評判を落としますが、若いころは、出自なども無視してどんどん仲間を増やしていく、現代風にいえば、少年漫画の主人公のような魅力に満ちた人生を送っていました。竹中半兵衛はそこに、新しい時代を呼び込むようなエネルギーを感じ、賭けてみる気持ちになったのかもしれません。
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黒田官兵衛の野心を「忠誠」に変えた一通の手紙
続いて、黒田官兵衛のケースを見ていきましょう。彼は、半兵衛とは正反対の「野心の塊」のような人物でした。しかし、その官兵衛が秀吉に決定的に心を許す出来事があります。
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幽閉された官兵衛を救った、秀吉との深い信頼関係
それは、織田信長に叛旗を翻した荒木村重を説得しに行った官兵衛が、逆に幽閉されてしまった事件です。
このとき、信長は「官兵衛が裏切った」と判断し、人質に取っていた官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じました。ところが、秀吉と半兵衛は、信長の命令にそむいてまで、松寿丸を匿い、生かし続けたのです。織田信長の性格を考えれば、秀吉といえども、これはかなり危険な「抵抗」だったと思われます。
「主君の命令にそむいてまで、自分の息子を守ってくれた」一年後、半死半生で救出された官兵衛がこの事実を知ったとき、彼の中で何かが決定的に動いたはずです。秀吉は、「人たらし」という言葉では収まりきらないほどの、「良い人材を部下に招待するためには、命さえ賭ける」という情熱を見せつけたのでした。
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「弟のように思っている」相手の懐に飛び込む殺し文句
秀吉が官兵衛に宛てた手紙には、「お前を弟のように思っている」といった、温かい言葉が並びます。戦国大名と家臣の関係としては、相当に異例の言葉遣いといえるでしょう。ここに秀吉の人心掌握の、ひとつのパターンが見えます。「身分の壁をあえて取り払い、相手の懐に飛び込む」「必要に応じては、命を賭ける」野心家の官兵衛は、自分自身の心をほだされただけでなく、この主君ならば天下取りも可能かもしれないと、秀吉に賭ける気持ちになったのだと思います。
「二兵衛」の個性を衝突させないチームビルディング
もっとも、単に登用に優れているだけでは、その後の組織はうまく維持できません。優秀な人材は、同時にしばしば、個性も強いもの。秀吉はそうした「異才」たちをどのように使いこなしていたのか?ひきつづき、「二兵衛」とも称される半兵衛と官兵衛の二人組を例に、秀吉のマネジメント術を見ていきましょう。
静の半兵衛、動の官兵衛。役割を明確化するアサインの妙
そもそも両者には出自からして、以下のような違いがあります。半兵衛は静かに状況を読み、長期戦略を組み立てるタイプ。官兵衛は動的に交渉や調略で局面を切り開くタイプ。秀吉は、そうした特性をよく見て、半兵衛と官兵衛の役割分担を明確に切り分けました。特に秀吉の前半生における重要な局面となった播磨平定戦では、長期包囲戦の設計は半兵衛、外交や寝返り工作は官兵衛と、二人の得意分野をよく観察したうえで、役割がぶつからないように明確に担当を指示していました。
組織の風通しを良くする「情報の共有」と「権限委譲」
秀吉軍のもう一つの特徴は、現場の判断は、現場の指揮官に大胆に任せる、ということでした。今風にいえば、「現場の部長課長クラスがてきぱきと判断をして、自分には定期的に連絡をしてくれればよい」という、優秀な中間管理職に裁量を大きくゆだねるパターンです。
戦国時代においてこれはリスクもあったはずですが、秀吉の眼鏡にかなった半兵衛や官兵衛のような一流のプロフェッショナルたちは、暴走することも陰謀に走ることもなく、いきいきとその才能を発揮することができました。
秀吉流・人心掌握術の核心:相手に「恩」を着せない与え方
人材登用もうまくいき、仕事におけるアサインもうまくいけば、次のリーダーの役割は、働きに対する恩賞の与え方です。ここでも、秀吉のやり方には、他の戦国大名には見られない独特のアプローチがあります。もちろん金銭や領地も与えるのですが、それ以上に、「名誉」と「次の仕事」を重視していました。
恩賞は「金銭」以上に「名誉」と「チャンス」を
たとえば、戦功を挙げた家臣には、人前で大げさに褒め、金銭や土地といった褒美を与えつつ、次はより大きな任務を任せることを明言する。半兵衛や官兵衛タイプの、自分の有能さに自信がある人物ほど、恩賞以上に、「より大きな裁量を任される」ことがモチベーションになったことでしょう。
失敗を責めず、次の「勝ち」をイメージさせるポジティブ心理学
このようなやり方を取ると、あまりに大きな仕事を部下に委ねたがゆえの、大きな失敗も時には起きたことでしょう。ですが、秀吉は家臣の失敗を、あまり厳しく責めませんでした。代わりに、「次はこうやって勝とう」と、未来の勝利のイメージを共有することに、エネルギーを注ぎました。
現代のマネジメント術やコーチング術を、秀吉が知っていたわけはありませんが、どこかで現代にも通用しそうな、人間観察と心理学に基づく、それでいてきわめて合理的なリーダーシップを秀吉は貫いていたように思います。
現場第一主義!足軽の心を掴んだ「共感」の力
竹中半兵衛や黒田官兵衛のような、もともと超一流のプロフェッショナルは、それでいいとして、もっと末端の足軽兵たちには、秀吉はどう見えていたのでしょうか?
これについては、秀吉自身が低い身分の出身であることが、秀吉のキャリア全体を通じての強みになっていました。足軽たちと一緒に飯を食い、時には、同じ場所で寝る。合戦の前には、一人ひとりに声をかける。これらは、家柄の高い武将たちには、とうていできないことです。この「共感」の積み重ねこそが、数万の兵を「秀吉のために命を懸ける」軍団に変えていったのでしょう。
千利休や豊臣秀次に見る、人心掌握の「賞味期限」
ただし、秀吉の人心掌握術には、痛い「弱点」もありました。プロフェッショナルな人材を集め、おおいに働かせる手法は、組織全体が上り調子な時はよいのですが、しだいに組織が巨大化し、安定し、かつ天下取りもゴールが見えてくると、前半生では起こらなかったような軋轢、すれ違い、そして時には恐ろしい疑心暗鬼を生み出すことになります。
千利休の切腹、甥の豊臣秀次の悲劇は、その典型でしょう。人心掌握術が、相手を生かす方向ではなく、相手を追い詰める方向に働いてしまったのです。人たらしとして成功した人物が、後半生になると、有能すぎる部下や、出世しすぎた部下とうまくいかなくなってくる、というのは何とも皮肉です。
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現代ビジネスに活かす「秀吉式マネジメント」
ともあれ、秀吉がその前半生で見せた人心掌握術をまとめてみましょう。それは三つに整理できると思います。言葉だけではなく、時には自分の身をリスクにさらすことで、信頼を得ること。個性をよく観察し、的確なアサインを与えること。そして、金銭だけでなく、次の仕事を任せるという形でのモチベーションアップを行うこと。これらは現代ビジネスにも生かせるポイントではないでしょうか?
日本史ライターYASHIROの独り言
このように秀吉の人材マネジメントを見てくると、現代でも通じそうな手腕に感嘆します。それだけに、晩年において、おそろしい事件を次々に起こし、人心が豊臣家から離れていく原因を作ってしまったことが悔やまれます。上り調子の時は良かった秀吉の人心掌握術、これを晩年にも機能させるためには、秀吉自身には何が足りなかったのかどうすればよかったのか?
これは秀吉ですら失敗した、難しい課題を考えることになり、当然、容易に答えがでてくることではないでしょう。ですが、あえてそこまで深く考えながら、秀吉の人生ドラマを追ってみると、組織やビジネス運営にもつながる、何か深い気づきが得られ、単に秀吉を真似するだけでなく、秀吉自身の限界も越えられるマネジメントの秘訣が見つかるかもしれませんね!
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