戦国時代

「戦国最大の軍師」黒田官兵衛が天下取りに向けて仕掛けた最後の「博打」とは?

不敵な笑みで豊臣秀吉を励ます黒田官兵衛

 

戦国時代随一の軍師といわれる、黒田官兵衛(くろだ かんべえ)豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)のかたわらで知恵袋として常に的確な献策をし、秀吉の天下取りにたいへんな貢献をした人物です。

非常に極悪な表情をしている豊臣秀吉

 

その黒田官兵衛のことを、晩年の秀吉は、

「自分が死んだあとに天下を奪いに来るのはあの男だ!」と警戒していた、という逸話が遺されています。

 

黒田官兵衛

 

もしこの逸話が本当ならば、秀吉は公然のライバルである徳川家康よりも、かつての自分の片腕であった黒田官兵衛を「天下を取るだけの実力がある」と恐れていた、ということになります。これは老年の秀吉が傾向として持つようになった、身内に対する猜疑心の強さのあらわれなのでしょうか?

 

ところが確かに、黒田官兵衛は秀吉の死後、天下取りを意識したと思われるとてつもないスケールの「博打」を行っているのです!

 

これは「日本版の天下三分の計」?黒田官兵衛の生涯最後の「博打」!

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

それは、かの関ケ原せきがはら)の合戦の際に起こった事件です。よく知られている通り、徳川家康(とくがわ いえやす
)
が率いる東軍と、石田三成(いしだ みつなり
)
が率いる西軍とは、関ケ原に大集結し、そこで天下分け目の大決戦を行いました。

 

黒田官兵衛

 

このとき関ケ原から遠く離れた九州で、ある「事件」が起こっていました。黒田官兵衛が突然、北九州で挙兵したのです。官兵衛は秀吉による天下統一後、豊前国(ぶぜんのくに
)
(いまの福岡県)の大名に取り立てられていました。

 

足軽a-モブ(兵士)

 

その官兵衛が豊前の地にて、大量の金銭をばらまいて浪人たちを雇い入れ、電撃的に大軍を編成し立ち上がったわけです。挙兵したあとの行動も実に素早く、九州の各地で連戦連勝の実績をあげ、あわや九州を平定しかねない急膨張を見せたのでした。

 

思えば、かつて『太平記(たいへいき
)
』の時代、いちど本州から追放された足利尊氏(あしかが たかうじ
)
が、九州を拠点にして大軍を編成し、そこからの大逆転で天下を取ったという日本史上の「前例」があります。

 

このときの黒田官兵衛も、それにあやかり、九州を平定することで豊臣方でも徳川方でもない「第三勢力」になり、そこから天下を狙う作戦に出たのではないでしょうか。

 

車に乗る諸葛亮(孔明)

 

これはまるで、諸葛亮孔明(しょかつ りょうこうめい
)
の「天下三分の計(てんかさんぶんのけい)」を思わせるような、「日本版の天下三分の計」?

 

官兵衛としては、日本の天下を「三分」して、その第三勢力に自分自身が収まることで、起死回生の天下取りを目指すという人生最後の博打に出たものと思われます。

 

実は失敗しても安全な策になっていた?官兵衛の挙兵のあっぱれな「言い分」

徳川家康

 

これは、豊臣方にとっても、徳川方にとっても、由々しき事態と見えたはずです。

 

荒木村重を説得しに行く黒田官兵衛

 

それゆえ、もしこれが失敗すれば、黒田官兵衛は「どさくさに紛れて天下を狙った危険人物」として、豊臣方からも徳川方からも目をつけられ、潰されてしまう運命になりそうです。まさに「最後の博打」といいたくなるゆえんです。

 

ところが、実は官兵衛は、この博打に失敗しても、「元手を失わない」ように周到な安全策を張っていました。ここが黒田官兵衛の賢いところですが、九州での挙兵の際には、りっぱな大義名分を掲げていたのです。

 

黒田官兵衛が挙兵の理由としたのは、

「自分は東軍(徳川家康)に味方をし、徳川方を有利にするために、九州地方の西軍(豊臣方)の諸大名を攻撃しているのだ」というものでした。

 

薩摩藩の島津義弘

 

なるほど確かに、九州の諸大名は、島津家(しまづけ)といい、立花家(たちばなけ)といい、小西家(こにしけ)といい、ほとんどが西軍側についていました。

「西軍についたこれら諸大名の後方を攪乱しているのだ。だから自分は家康の味方をしているのだ」というのが黒田官兵衛の言い分。

 

そして実際に、黒田官兵衛委は、東軍に参加していた加藤清正(かとう きよまさ
)
の所領には手を出していませんし、途中から東軍よりの立場になった佐賀の鍋島直茂(なべしま なおしげ
)
とも同盟関係を維持しました。

 

いちばん賢い点は「無理」とわかった途端にすぐに博打を中断したこと!

 

これでは徳川家康も、黒田官兵衛を罪に問うわけにはいかない。実際、関ケ原の合戦が終了した後、家康は九州の官兵衛に対して停戦するよう要請するのですが、その際の指示も、

 

「いやいや、九州で働いてくれたようで、ありがとう!でも、関ケ原の合戦は東軍の勝利に終わったから、あなたももう戦をやめてくれていいよ」というニュアンスのものでした。

 

家康本人は、とうぜん官兵衛の本心を見抜いているでしょうから、

「こざかしいやつ!」と歯ぎしりしながらも、このようなタテマエの指示を出していたのかもしれませんが。

 

そして、ここでの黒田官兵衛の動きもさるもので、家康からそのような指示が出るや、すぐに軍を解散し、手に入れた領土も手放し、豊前に戻ってしまいました。

 

「あとは島津家を倒せば、九州のほぼ全土を手に入れられる」というところまで、野望が成功しかけていたのに、です。成功を重ねていたにも関わらず、状況が不利になったと判断した瞬間に、あっけなく博打を中断できることが、黒田官兵衛の底知れぬ策士としての凄みを感じます。

 

まとめ:この「博打」の真意は、自分の実力を最後に試してみたかったから?

千利休

 

人生最後の博打を、成功寸前で断念した官兵衛。ところが本人はその後、趣味の茶道に入れ込んだり、有馬温泉に旅行に出かけたりと、楽しそうな隠居生活を送り、平穏に天寿をまっとうしました。官兵衛にとって天下へのこだわりは、それほど強いものではなかったのでしょうか?

 

戦国史ライター YASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

ここからは想像ですが、おそらく黒田官兵衛のようなタイプの人物は、「自分が凄い能力を持っている」ことを天下に知らしめることさえできれば、権力そのものは別にいらない、ということなのかもしれません。関ケ原のどさくさに紛れて九州で大暴れをし、徳川家康を恐れさせた、というところまででじゅうぶん、本人は満足できてしまったのかもしれません。

 

博打には失敗したが、家康に罪に問われなかったことで「元手は何も失わなかった」官兵衛。

 

本人としては

「自分の名声を天下に知らしめ、後世にも語り継がれる伝説となったのだから、やはり博打に打って出てよかったわい」と、有馬温泉につかりながら、ほくそ笑んでいたのかもしれませんね。

 

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