100年以上もの間続いた戦国時代から安土桃山時代に代わるタイミングで登場した織田政権。
織田信長を中心とした、政治勢力の特徴について紹介します。地方での形成過程から、全国組織への発展。そして最終的に政権が崩壊するまでについて徹底解説します。
織田政権の名称
織田政権とは、安土桃山時代の前半期に存在した武家政権の名前です。戦国時代から台頭してきた織田信長が政権を握っていた時代。一般的には1573年から1582年を指します。1573年は元亀4年から天正に改元した年で、7月に室町幕府15代将軍足利義昭が追放され、幕府が崩壊した年。
戦国時代は広義には室町時代の一部なので、信長のこうした行為によって時代が移り変わったとされます。この時代の最中、1576年(天正4年) に信長は滋賀県の安土に拠点となる城を築きました。一方1582年は天正10年に当たります。この年の6月には本能寺の変が起こり、信長の死によって実質的な織田政権が終了します。
ただし信長の死からしばらくは織田家が一応トップという位置づけで清州会議が開かれました。厳密には織田政権の名残はしばらく続きます。
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織田政権の段階
織田政権を安土桃山時代の10年間だけとすると、実態とは大きく異なります。そのため研究者によっては織田政権はこの10年間だけではないとの主張があり、そこではこの10年を3期目と位置付けています。その理由として義昭が将軍であった時期は実質的に信長が政治の実権を握っていたからです。
信長の力で上洛し、14代将軍やそれを支える三好三人衆を追放。そして彼らとの戦いを通じて少しづつ勢力を拡大していった時代です。さらに義昭が信長を倒そうと、周辺の大名や本願寺を利用して行った信長包囲網も戦国時代に行われています。
この包囲網自体が絶対的な力を持った信長の力をそぎ落とす目的で行われました。表向きは室町時代ですが同時に織田政権が存在したと考えられます。この場合第2期目の時代です。
そして義昭と出会う前が第1期です。信長の属する織田家は尾張の国に勢力を持っていた戦国大名。信長が後継者になった直後は反乱がありましたが、それを制し多信長は尾張を統一。桶狭間の戦いを経てやがて美濃に侵攻します。濃尾平野を中心に勢力を確立していた1568(永禄11)年ごろまでの、いわゆる地方政権だった時期も織田政権とする見方があります。
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発足から確立まで
織田政権の発足ですが、安土桃山時代だけではなくその前の時代、地方政権の時代から目を向けましょう。織田家はもともと越前の国人でした。後醍醐天皇の建武の新制時に越前の守護に斯波氏が選ばれてから、その家臣として織田氏が従い、各地に分家が出来ます。
やがて応仁の乱で織田家が分裂し、尾張の織田家は西軍に属しました。その後尾張では、岩倉織田氏、清州織田氏に分裂。さらに清州織田氏の家老だった織田信定は主家以上に台頭していきます。これが信長の直接の先祖です。
父信秀の時代には他国の大名と抗争するまで勢力拡大しました。
信長が継いだ後、弟・信行など抵抗勢力を次々と倒していき、一気に尾張統一までこぎつけました。この頃には地方政権としての織田政権が発足していると考えられます。信長が家督を継ぎ、初めてその名を知らしめた桶狭間の戦いのころは、次の家臣団で構成されていました。
- 連技衆と呼ばれる親族のグループ
- 織田家の重臣クラスの独立した勢力を持っていた大身の武将
- 信長のそばに固まっていた小身の旗本衆
- 吏僚と呼ばれる一般政務を主体としたグループ
さらに美濃の斎藤氏との戦いを通じてさらにに勢力を拡大。最終的に斎藤竜興に勝利し、美濃と尾張の二か国を手にします。
そして明智光秀の手引きにより義昭が信長と対面すると、信長が上洛戦を開始。義昭を15代将軍に据えて室町幕府を支え、もうひとつの実効勢力として織田政権が確立します。
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信長包囲網と織田政権
表向きは室町幕府の義昭が将軍でしたが、実質的に支配していたのが信長とその家臣団である織田政権。信長に手が出せない義昭は信長の勢力をそぎ落とそうと、将軍の権威を利用して諸大名に命令し、信長包囲網を築きます。
第一次包囲網は信長に追放された三好三人衆、越前の朝倉、その朝倉との関係が深く、信長の妹を娶ったのにも関わらず裏切った浅井氏。これに本願寺、比叡山、近江の六角ら14もの勢力が参加して信長と対峙します。織田政権を支える信長家臣団は、これらの敵との争いを繰り返します。
特に本願寺とは10年もの長きにわたって戦いました。第一次包囲網はいったん解かれますが、さらに強力な第二次包囲網が形成されます。これには第一次の勢力に加えて、甲斐の武田、関東の北条らが加わります。室町幕府が滅亡する前までの信長の勢力は主に近江地域に展開していました。これは元の拠点、尾張・美濃と京を結ぶ重要なルート。
また北近江の浅井が裏切ったことが大きくかかわっています。また朝倉との連合軍が京に侵入するのを防ぐ狙いがありました。
当初は森可成、柴田勝家、佐久間信盛、中川重政がこの任務に就きます。その後丹羽長秀、磯野員昌、新しく家臣になった明智光秀、農民から一気に出世を遂げた木下(豊臣)秀吉も加わりました。
途中で可成が討ち死にしたために、最終的には7人の将による軍事支配体制が確立されます。それから室町幕府崩壊後も第三次包囲網が形成され、これには越後の上杉や中国地方の毛利、備前の宇喜多、播磨の諸勢力に瀬戸内の村上水軍などが参加。織田政権は常に戦いと隣り合わせの日々でした。
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織田政権の特徴
織田政権の特徴ですが、天下を掌握するにあたり斬新な政策を次々と行ったという印象があります。しかし最近の研究では、必ずしも信長が斬新な戦国大名としてのし上がったわけではないことがわかってきました。
例えば有名な楽市楽座も、信長が最初に行ったわけではありません。信長が実施したのは1567(永禄10)年に美濃の国で行います。
しかしそれよりも20年近く前の1549(天文18)年の時点で、近江を支配していた六角定頼が居城だった観音寺城の城下町に、楽市令を布いた記録が残っています。
さらに、室町幕府の15代将軍義昭は無能な傀儡政権ではなく、実体のある勢力でした。実際には足利幕府の政治権力とは別に織田政権があったと考えられています。だから将軍義昭が独自に諸大名に書状を送って信長包囲網を構築できました。義昭追放後は、信長が実効支配する織田政権のみが残りました。だが最近の研究では中世の戦国大名の支配勢力の延長戦との見方が強くなっています。
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織田政権の人事・諸大名が怖れた大軍団とは
室町幕府が滅亡し、信長が実質的にトップの地位となると、近江を中心に展開していた信長の重臣たちの目的が遠征に変わります。各方面に司令官を頂点とした大軍団を作り、遠方の大名の制圧をもくろみます。初めて軍団を指揮したのは嫡男の信忠軍で、これは室町幕府滅亡と同じ1573年と推定されています。
主な目的は武田勝頼との対峙。さらに信長から尾張・東美濃地域が与えられ、後継者としての道を歩みます。やがて北陸方面軍に柴田勝家、大坂方面軍に佐久間信盛があらたに司令官となります。
ところが信盛は途中で追放されました。その後にできたのが中国方面軍の羽柴秀吉です。そして本能寺の変と同じ年1582年には関東軍の滝川一益、四国軍の三男・信孝軍が出来ました。
このほかにもこのほか小さい軍勢力。信長の直属や各方面の援軍などを行う「遊撃軍」がありました。
秀吉は当初遊撃軍で、後に中国方面軍を任されたといわれています。そのほか信長直属の旗本武将軍、主に室町幕府の旧幕臣で、信長からはあまり役に立たないとみなされていた外様衆がいました。
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