日本は世界有数の地震大国です。kawausoは、今年45歳ですが、この45年間に阪神淡路大地震と東日本大震災の2つの大地震を見聞きする事になりました。
人の一生の中で何度も大地震が起きる日本では、もちろん戦国時代にも大きな地震が起きて大勢の人が犠牲になっています。今回は戦国末期に起きた天正大地震と、その中で起きた命のドラマについて解説しましょう。
この記事の目次
1586年1月18日深夜、天正大地震発生
戦国時代のど真ん中、1586年1月18日、23:00頃、大地震が発生。震源地は、近畿から東海、北陸にかけての広い範囲で規模はマグニチュード8.0もっとも揺れが激しかった岐阜県などでは震度6と考えられています。世に言う天正大地震の発生でした。
被害は地震と津波で広範囲にわたり、その一部をあげて見ると、飛騨では帰雲城が帰雲山の山崩れで埋没、城主内ケ島氏理とその一族は全員生き埋めになり滅亡。
美濃では大垣城が全壊焼失、越中国木舟城も地震で倒壊し、城主の前田秀継夫妻など多数死亡するなど各地で甚大な被害が出ました。
さて、この天正大地震、戦国時代好きならご存知であろう、ある有名武将の家族が巻き込まれていました。その武将とは山内一豊、巻き込まれたのは見性院(千代)と一人娘の与祢でした。
天正大地震の悲劇と再生の記録
その頃、山内一豊は、近江長浜城の城主でした。長浜城は、秀吉が織田信長の配下羽柴秀吉と名乗っていた時代に、水運の便を第一に考えて水辺の軟弱な地盤の上に松杭を打ち込んで地盤を固めて築いた城です。
しかし、戦国時代当時の建築技術では、水辺の軟弱地盤に城を築くのは極めて危険でした。それでも琵琶湖の水運の利便を優先した秀吉は危険に目をつむり長浜城を築いていたのです。
それが天正大地震ではあだになり、長浜城を激震が襲い、地盤は沈み城下町ごと崩壊します。悪い事に、その時山内一豊は不在で、京都で豊臣秀次に仕えており長浜城は、家老と見性院が留守を預かる状態だったのです。
当時、山内一豊と見性院の間には与祢という6歳の一人娘がいるだけで、一豊はこの愛娘を溺愛していました。天災は無慈悲でした。夜中に襲った地震は、見性院と与祢が寝ていた長浜城の御殿を一瞬にして潰してしまったのです。
御家中名誉に記された地震直後の様子
長浜城の倒壊については、山内家家臣の功績録「御家中名誉」に詳しく書かれています。この時、真っ先に駆け付けたのは、家老の五藤市左衛門で、彼の詳しい証言が430年前の倒壊家屋からの人命救助の記録として残っているのです。
「一番に駆け付けたものの、暗すぎて何も見えない。
そうするうちに潰れた御殿の上から奥様(見性院)の声がして「市左衛門か?」と仰った。
急いで「はい」と答えると「およねは?」とお尋ねになった。
見性院は、運よく御殿から這い出し暗闇の中で必死に愛娘の与祢を探し続けていたのです。娘がいない、それが分かった時、母である見性院はどんなに不安だったでしょう。何とか娘を救い出さないといけない、その一心で真っ暗な中を歩き回っていたのです。
しかし、時は戦国の世、城壁も何もかも崩れた城には、夜陰に乗じて野盗が襲ってくる可能性もあり、政敵による暗殺の恐れもゼロではなく、余震も続いています。見性院を一刻も早く、まずは安全な場所に避難させる必要がありました。
そこで、五藤市左衛門は一世一代の大嘘をつきます。
「内心、とても無事ではなかろうとは思ったが、姫様はまずは御無事と奥様に嘘を申し上げ、
危なくない場所に誘導した」
と言うのです。
その上で、五藤は
「取って返し、お姫様のお部屋に向かい、崩れ落ちた屋根を切り破ってみると、大きな棟木が落ちかかり、下に姫様と乳母が共に息絶えて倒れ伏しておられた」
このように証言しています。地震で崩れた棟木に押しつぶされ、与祢は乳母と共に亡くなっていたのです。
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傷心の山内家に灯った小さな希望
天正大地震の頃の山内家は2万石、足軽までいれて500名程度の小さな家中でした。しかし、その中から重臣の乾彦作をはじめ、数十人が大地震の犠牲になります。
さらに、倒れた家屋の下から出火したケースもあり、生き残った人々は悲しみに打ちひしがれる暇さえなく、消火活動に追われました。地震の被害は城下にも及び、宣教師ルイス・フロイスは日本史で、
「長浜という城がある土地に人家千戸を超える町がある。そこで地震が起こり大地が割れ、家屋の半ばと多数の人が飲み込まれてしまい、残りの半分の家屋は、その同じ瞬間に炎上し灰燼に帰した」
と記録に残しています。
生き残った人々が悲しむ暇はまだありませんでした。1月18日、その日は大雪が降る非常に寒い日だったのです。家屋を失くした長浜の人々は武士も町人も焼け出された被災者でした。
一人娘の与祢を失い、悲しみ一方ならぬ見性院に左右の者がいいました。
「城の外で捨て子を見つけました、藁の編み籠に入れられ、短刀が一口添えられてあったので武士の子ではないかと?」
見性院は、その捨て子を憐れに思い、愛娘を失った寂しさもあり、左右の者に拾ってこさせ「拾」と名付けて育て始めたのです。長浜は小さな町なので、そのうち捨て子は、家臣の北村十兵衛正雄の3男だと分かりましたが、見性院も山内一豊も気にする様子もなく、実の子同様に愛情をかけて育てました。
愛娘を失った2人にとって、拾は絶望の中で見つけた小さな希望だったのです。一豊は「俺には男子がないから、拾を養子にして家督を継がせる」とまで言いました。
拾は成長し高名な学問僧になる
しかし、山内一豊が豊臣秀次事件に関係した頃から、血縁が無いものに家督を継がせるのはよくないという話になり、10歳になった拾と話し合った結果、拾を京都妙心寺に入れて、僧として修業させる事になります。
この時、一豊は黄金百枚という大金を学費として用立てたそうです。拾は一豊の期待に応え、湘南宗化という高名な学問僧になり、土佐藩を土佐南学で知られる学問藩にする貴重な人材に成長しました。
また湘南宗化は、儒学者山崎闇斎を見出して大学者に育て、後に闇斎は会津藩主、保科正之に仕えて会津藩の学問レベルを大きく引き上げています。
悲惨な天正大地震の時に見せた、山内一豊とその妻の捨て子に対する深い愛情が、幕末に主役として活躍する土佐藩と会津藩の学問を興隆させたとは不思議な話ですね。
ほのぼの日本史ライターkawausoの独り言
天災は、人間の弱さからくる醜さや卑怯さ、エゴイズムも曝け出しますが、同時に強い人間などいない、人は自然災害の前に全員無力であるという情け容赦のない真実にも気づきます。
私達は弱いからこそ、誰かを排除し傷つけるのですが、同時に弱いからこそ他人が必要で、だからこそ他人の為に動こうともするのだと思います。危機の時、どっちを選択するかは私達の心次第という事になりますね。出来るなら、山内一豊と見性院のように人を助ける側に立ちたいものです。
参考文献:天災から日本史を読み直す 磯田道史 中公新書 他
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