皆さんは一揆と言うと、どんなイメージをお持ちでしょうか?
藩主の悪政で飢えに苦しみ、どうにもならなくなった貧しい農民が鍬や鎌を手に取って、ムシロ旗を翻して代官所に暴力的に押し込む、という感じですか?
そのような暴力的な一揆も全くなかったわけではありませんが、実は一揆そのものは、そこまでの暴力沙汰になる事はまれで、また、一揆の理由は飢餓だけではありませんでした。今回は、イメージと随分違う、江戸時代の一揆について解説します。
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大飢饉で一揆は増加したが、それだけではない
江戸時代で一揆が増加したのは、享保・天明・天保の3大大飢饉です。天明飢饉では年間60件、天保飢饉では天保飢饉では100件が記録され、幕府の政治が末期的になった幕末には、第二次長州征伐あたりの年に一揆も110件記録されています。
最近、徳川の政治は素晴らしく、明治はダメだったという言説をよく見聞きしますが、一揆のデータを見る限り、大飢饉でもないのに年間110件の一揆が起きている時点で幕藩体制には終わりが近いような気が個人的にはしますね。
だからって明治が何が何でも素晴らしいとは言いませんが…
ただ、飢饉がなくても、江戸時代には毎年、平均すると30件程度一揆がありました。これは、一揆の性質が、必ずしも生きるか死ぬかの極限状態で起きるものとは限らないという事実を意味しています。
増税反対!今と変わらない江戸の一揆
生きるか死ぬかではない状態での一揆、それは自由な経済を求める農民と、新しく税金を取りたい支配者とのせめぎ合いの中で起きました。18世紀も後半になると、農村でも綿、菜種、藍、紅花など換金作物を栽培して出荷し現金収入を得る事が可能になり、それにより食べるのに精一杯だった暮らしに余裕が生まれるようになります。
しかし、豊かになる農民に目を付けたのが、財政が厳しくなってきた諸藩です。農民の換金作物の栽培に税金をかけたり、あるいは作物を藩が安値で買い叩き、これをまとめて大坂などで売りさばく事で財政を立て直そうと考えました。
やっと少し豊かになれたのに、その利益を何もしていない藩に吸い上げられてはたまらない。そこで、農民たちは、課税反対、換金作物の一括買い上げ反対をスローガンに一揆を起こす事がありました。これなどは、直接、生き死に関係ありませんが、自分達の利益が減る事ですから、農民は団結しモノ言う人々として抗議したのです。
決して幕藩体制を否定しない農民
また、一揆を起こす時には、農民たちは世直しのような極端なスローガンを掲げる事はありませんでした。あくまでも仁政を求めるという体裁を取り「私達の暮らしも考えて下さい、お侍様」と低姿勢を演じたのです。
儒学には支配者は善政を敷いて、庶民の生活を安定させないといけないという建前があり、農民たちはそこを突いた形でした。革命ではなく、生活援助を求められた場合、これを一切拒否するというのは支配者の建前では出来なかったのです。
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ムシロ旗や鍬や鎌は無抵抗の象徴
一揆が暴力蜂起ではない証拠として、農民たちも保有している刀や槍や弓、鉄砲のような殺傷兵器を持ち出さず、農具である鍬や鋤、鎌しか持たないで集合しました。これらは殺傷の道具ではなく、お上に対して逆らうつもりはありませんというPRです。
また、暴利を得ている富裕な商家に押し込んで打ち壊しなどに及ぶ時でも、建物は壊しても人間には危害を加えない、略奪はしない等の細かいルールがありました。
多くの一揆は武士の支配を否定する革命軍ではなく、支配は肯定し、その中の一部の悪政や悪人物について、畏れながら…と糾弾するものだったのです。
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一揆は違法であり処罰された
こうしてみると、現在の民主的なデモと一揆に差がないように感じますが、実際には、根本的な部分で大きな差がありました。現在の民主主義社会で、デモは国民の権利として認められているのに対し、江戸時代の一揆は原則非合法で処罰の対象だったからです。
一揆は、要求の多くが通るにしろ、一部が通るにしろ、一揆の指導者や参加者には、かならず処罰が下されました。特に一揆の指導者である頭取には、死罪、遠島(島流し)闕所(財産没収)など厳しい沙汰があり、一般参加者にも過料(罰金)が科されました。
妻や母による助命嘆願
ただ、これらの処罰についても、一揆に参加した首謀者の妻や母が寺に出した助命嘆願の書状が多く残されている事から、ある程度の減刑が施される事があった考えられます。
助命嘆願は、あるていど定型化されていたと考えられ、藩は最初に厳しい処分を提示しておき、後で寺を通じて助命嘆願書が届くと、
「公儀の御法を破るとは不届き千万!さりながら無知蒙昧な農民どもの所業ゆえ、此度ばかりは、名主どもがよくよく説教する事を条件に、特に罪一等を減じ…」とかなんとか、お題目をつけて一定の減刑処分をして農民に恩を売るような事もしたと考えられます。
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日本史ライターkawausoの独り言
江戸時代は、かつて教科書で習ったような武士階級により生活の隅々までが雁字搦めに規定された監視社会ではなく、農民は村役人のような指導者を中心に、農業から教育、村の困りごと、納税に至るまでを寄合で相談して決めている自立社会でした。
一致団結できるからこそ、時に為政者に対し不利益になる時には声を上げ、一揆を含め、合法、非合法、様々な手段でモノを言う事が可能だったんですね。
参考文献:歴史通 江戸三百諸藩の暮らしと仕事 朝日新聞出版
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