徳川家康のルーツ十八松平とは?江戸時代まで十四家も残った生命力が強い一族を解説

27/04/2022


徳川家康

 

今回のほのぼの日本史は、江戸幕府を開いた徳川家康(とくがわいえやす)のルーツに迫ります。家康は元々松平氏(まつだいらし)でしたが、その松平氏は十八もの分家に分かれました。今回は家康のルートをたどり、十八松平について、そしてその祖である松平氏親を解説します。

 

また家康が松平から徳川を名乗った理由についても触れていきましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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十八松平とは?

徳川家家紋

 

十八松平(じゅうはちまつだいら)とは、徳川家康を生み出した松平氏の一族の総称です。家康が徳川を名乗るまでは松平で、それは大元の先祖から数えると十八もの家に分かれたと言うものです。

 

十八のカウント方法もいろいろあり、家康以降の徳川宗家を加える場合もあれば、家康の祖父、松平清康(まつだいらきよやす)までの分家に限定する考え方があり、意見が分かれます。さらに余談ですが、本当に18もの分家があるのではなく、松平の「松」の字を分解すると「十八公」になるという考え方。これは中国の慣習から着想されたものですが、こういう説もあるほどです。

 

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はじめての戦国時代

 

 

松平氏の先祖松平親氏

世良田得川

 

では十八もの分家を作ったとされる松平氏の起源を探ると、複雑ですがおおよそ初代は松平親氏(まつだいらちかうじ)とされます。そしてそのさらに先祖を見るとふたつの氏が出て来ました。ひとつは清和源氏(せいわげんじ)の流れを汲む新田氏(にったし)から分かれた世良田氏(せらだし)で、もうひとつは同じく新田系統の得川氏です。

 

蒙古兵に先駆けをする竹崎季長

 

ふたつの氏がある理由。それは最初平安末期の武将に源義国(みなもとのよしくに)と言う人がいました。彼は八幡太郎(はちまんたろう)義家(よしいえ)の子で、足利氏(あしかがし)と新田氏の祖と言われている人物です。その子の義重は、上野国新田郡(こうずけのくににったぐん)の開拓事業に携わって新田荘を立ち上げました。こうして新田氏を名乗ります。

 

その義重の四男義季(よしすえ)が、父より新田郡内にある、世良田郷と得川郷を任されました。その際に義季が、世良田氏と得川氏(とくがわし)のどちらを名乗ったかについて、現在でも論争があります。そのため義季の子供たちの氏には資料により、世良田と得川の両方が存在しているためより複雑になっています。

 

いずれにせよその子孫の中に、後に松平を名乗る親氏が誕生します。ちなみに後になり、松平清康が世良田氏の後裔を名乗るようになりました。

朝廷(天皇)

 

孫の家康もそれに習い、三河守任官を働きかけるときに出自を語りますが、正親町天皇(おおぎまちてんのう)に「世良田源氏の三河守任官は前例が無い」と断られてしまいました。そこで家康は、今度は得川氏の末裔(世良田氏だけど、これは源氏から藤原氏(ふじわらし)の支流に分かれたということにして)なので、家康は松平から徳川と改姓。藤原氏の本性変更と共に、ようやく三河守に叙任されました。

 

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松平氏の初代親氏と三河の国松平郷の領主・信重

三河国

 

松平親氏は南北朝から室町時代の初期にかけて三河の地にいた武将。生誕は不明ですが、没年も1361年から1467年まで書物により幅広く、はっきりわかっていません。親氏は当初得川(世良田)親氏でした。得川(世良田)義季から数えて、9世孫にあたります。

 

その生涯を見ると父の有親とともに関東での戦いに敗れ、追手から逃れるために、時宗(じしゅう)の総本山清浄光寺(しょうじょうこうじ)に逃げ込んで僧になりました。その後諸国を流浪。三河国加茂郡松平郷に来ました。

 

ここで在来の領主・松平信重(まつだいらのぶしげ)と出会います。信重の出自は不明で、賀茂氏(かもうじ)もしくは在原氏(ありはらうじ)の末裔との説があります。ここで客人としていた親氏でしたが、和歌に通じた教養と武勇が優れていたので、信重は次女の婿として親氏を養子に迎え入れました。

 

こうして親氏が松平氏の祖と言われています。不思議なことに養父信重は、松平氏の祖先とは一般的にカウントされていません。その理由として信重の先祖が不詳だったことと、親氏が世良田もしくは得川の出身。つまり新田源氏(にったげんじ)につながることで、清康や家康が利用したことが考えられます。

 

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徳川宗家は安祥松平家の系統だった

三河国勢力図

 

松平親氏を祖として十八もの支族に分かれた松平家。それでは後に征夷大将軍として江戸幕府を開いた家康は、どの松平家の一族かを確認すると、安祥松平家になります。

 

系図を見ると親氏の子・泰親(やすちか)が二代目を継ぎます。彼にはふたりの兄弟がいました。

 

ひとりめの広親(ひろちか)酒井氏(さかいし)を名乗ります。この子孫が酒井忠次(さかいただつぐ)などを出し、徳川家の最古参の譜代大名となります。そしてもうひとり信広は、養父信重の松平郷を継ぎました。

 

泰親の子、3代信光(のぶみつ)以降は代々分家が誕生し、松平の支流が増えていきます。そして信光の時代に戦国時代に突入。

 

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

岡崎城を手に入れ、安祥に進出して西三河を支配しました。その信光の三男親忠が安祥松平家初代で、松平宗家の4代目になります。しかし当初は分家扱いという説があります。しかしそれから長親(ながちか)信忠(のぶただ)と続き、家康の祖父で7代目清康の時代に、一気に三河の戦国大名として頭角を現しました。

 

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三国志とりかへばや物語

 

 

江戸時代まで存続した十四松平

名古屋城

 

十八松平のうち、後に徳川宗家となる安祥松平家以外で江戸時代にまで存続したのは、14家あります。以下がその一覧です。

 

  1. 竹谷松平家(たけのやまつだいらけ)(三代信光の長男守家(もりいえ)が初代、拠点は現在の蒲郡市竹谷町)
  2. 形原松平家(かたのはらまつだいらけ)(三代信光の四男与副(ともすけ)が初代、拠点は現在の蒲郡市形原町)
  3. 大草松平家(おおくさまつだいらけ)(三代信光の五男光重(みつしげ)が初代、拠点は現在の額田郡幸田町)
  4. 五井松平家(ごいまつだいらけ)(三代信光の七男忠景(ただかげ)が初代、拠点は現在の蒲郡市五井町)
  5. 深溝松平家(ふこうずまつだいらけ)(五井松平忠景の次男忠定(たださだ)が初代、拠点は現在の額田郡幸田町深溝)
  6. 能見松平家(のみまつだいらけ)(三代信光の八男光親(みつちか)が初代、拠点は現在の岡崎市能見町)
  7. 長沢松平家(ながさわまつだいらけ)(三代信光の十一男親則(ちかのり)が初代、拠点は現在の豊川市長沢町)
  8. 大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)(四代親忠の次男乗元(のりもと)が初代、拠点は現在の豊田市大内町)
  9. 滝脇松平家(たきわきまつだいらけ)(四代親忠の九男乗清(のりきよ)が初代、拠点は現在の豊田市滝脇町)
  10. 福釜松平家(ふかままつだいらけ)(五代長親の次男親盛(ちかもり)が初代、拠点は現在の安城市福釜町)
  11. 桜井松平家(さくらいまつだいらけ)(五代長親の三男信定(のぶさだ)が初代、拠点は現在の安城市桜井町)
  12. 東条(とうじょう)(青野)松平家(まつだいらけ)(五代長親の四男義春(よしはる)が初代、拠点は二代忠茂までは現在の岡崎市上青野で、三代家忠から西尾市吉良町)
  13. 藤井松平家(ふじいまつだいらけ)(五代長親の五男利長(としなが)が初代、拠点は現在の安城市藤井町)
  14. 三木松平家(みつぎまつだいらけ)(六代信忠の次男信孝(のぶたか)が初代、別名合歓木松平家(ねむのきまつだいらけ) 拠点は現在の岡崎市上三ツ木町)

 

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ガンバレ徳川

 

 

断絶した家系・例外的な松平家

 

十八松平のうち江戸時代の前に断絶した松平家が3家あります

 

  1. 岩津松平家(いわつまつだいらけ)(四代親忠の長男親長が初代、拠点は現在の岡崎市岩津町)
  2. 西福釜松平家(にしふかままつだいらけ) (四代親忠の七男親光(ちかみつ)が初代、拠点は現在の豊田市鴛鴨町)
  3. 鵜殿松平家(うどのまつだいらけ)(六代信忠の三男康孝(やすたか)が初代)

 

また、十八松平家にはカウントされない例外的な松平家があります。

 

  1. 宮石松平家(みやいしまつだいらけ)(大給松平家の分家で、乗元(のりもと)の三男乗次(のりつぐ)が初代)
  2. 久松松平家(ひさまつまつだいらけ)(徳川家康の生母・伝通院(でんづういん)が後妻として久松氏に入って生まれた、家康の異父弟の康元(やすもと)康俊(やすとし)定勝(さだかつ)を初代とする一族)

 

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ほのぼの日本史

 

 

江戸十八松平とは?

江戸城

 

家康が天下を取り幕府を開いてからの江戸時代、本来の十八松平とは違う意味で江戸十八松平と称されるものが登場しました。これは徳川将軍家が、特定の大名に対して公的な文章に『松平』の姓を称号として許した家を指します。これは本来の松平氏とは血縁のない大名たちが、将軍家の出自である松平の称号を特別に使えるというステータスのようなものです。

 

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新選組

 

 

江戸十八松平の一覧

参勤交代

 

1.譜代大名(8家)

奥平松平家 (おくだいらまつだいらけ)- 家康の外孫の奥平家で、武蔵忍藩主、播磨姫路新田藩主など

松井松平家(まついまつだいらけ) - 松井家で、 武蔵川越藩主。

戸田松平家(とだまつだいらけ) - 戸田家で、信濃松本藩主。

④久松松平家 - 家康の異父弟たちの久松家で、伊予松山藩主、伊勢桑名藩主など

鷹司松平家(たかつかさまつだいらけ) - 公家・摂関家の鷹司家の支流。紀州徳川家御連枝一門で、上野吉井藩主。

本庄松平家(ほんじょうまつだいらけ) - 5代将軍綱吉(つなよし)の母桂昌院(けいしょういん)の甥・松平資俊(まつだいらすけとし)が始祖。丹後宮津藩主、越前高森藩主。

越智松平家(おちまつだいらけ) - 6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)弟の松平清武(まつだいらきよたけ)が始祖。野国館林藩のち石見浜田藩主。

松平美濃守家(まつだいらみののかみけ) - 綱吉の寵愛を受けた柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の一族。大和郡山藩主。

 

2.外様大名(10家)

松平加賀守家(まつだいらかがのかみけ) - 前田家、加賀藩主。

松平陸奥守家(まつだいらむつのかみけ) - 伊達家、陸奥仙台藩主。

松平薩摩守家(まつだいらさつまのかみけ) - 島津家、薩摩藩主。

松平長門守家(まつだいらながとのかみけ) - 毛利家、長州藩主。

松平官兵衛(まつだいらかんべぇ)(筑前守・甲斐守)家 - 黒田家、筑前福岡藩主。

松平安芸守家 (まつだいらあきのかみけ)- 浅野家、安芸広島藩主。

松平肥前守家(まつだいらひぜんのかみけ) - 鍋島家、肥前佐賀藩主。

松平因幡守家(まつだいらいなばのかみけ)松平備前守家(まつだいらびぜんのかみけ) - 池田家。鳥取藩主、岡山藩主。

松平阿波守家(まつだいらあわのかみけ) - 蜂須賀家、阿波徳島藩主。

松平土佐守家(まつだいらとさのかみけ) - 山内家。土佐藩主。

 

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三国同盟を潰したあの男

 

 

戦国時代ライターSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

十八松平家は、家康を輩出した松平家の分家の総称です。松平氏自身は三河の松平郷の古くからの一族でした。しかし源氏の子孫で、世良田もしくは得川の一族という氏親が婿養子になり、彼が初代扱になります。そして出自が重要なことから家康が松平から得川に通じる徳川と姓を改名して官位をもらいました。

 

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47都道府県戦国時代

 

 

 

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旧石器から現代史、日本、中国、西洋とどの歴史にも興味があります。小学生のころから歴史に興味があり、歴史上の偉人伝を呼んだり、NHKの大河ドラマを見たりして歴史に興味を持ちます。日本のあらゆる歴史に興味を持ち、旧石器や縄文・神話の時代から戦後の日本までどの時代も対応可能。また中国の通史を一通り読み西洋や東南アジア、南米に至るまで世界の歴史に興味があります。最近は、行く機会の多いもののまだあまり知られていない東南アジア諸国の歴史にはまっています。勝者が歴史を書くので、歴史上悪役とされた敗者・人物は本当は悪者では無いと言ったところに興味を持っています。
【好きな歴史人物】
蘇我入鹿、明智光秀、石田三成、柳沢吉保、田沼意次(一般的に悪役になっている人たち)、溥儀、陳国峻(ベトナムの将軍)、タークシン(タイの大王)

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