以前よりイメージは改善されたとはいえ、江戸時代の藩の領民について私達は、あまり幸福そうな感じを抱いていません。支配者である武士に厳しく搾取され、貧困に喘ぎながら暮らし凶作で為す術もなく餓死したのではないか?
タイムスリップしても江戸の町民ならともかく藩の百姓なんて絶対イヤ!
確かにそんな悲惨な藩もありましたが、中には230年もの間、大飢饉でも餓死者が出なかった藩もあります。
今回紹介する伊予小松藩1万石がそうなのです。
一柳直盛の3男に与えられた小松藩
伊予小松藩は、寛永9年(1632年)豊臣秀吉に仕えた後、関ケ原で東軍について大阪城攻めにも参加した一柳直盛が伊予西条に6万8600石を与えられたのが始まりです。転封を命じられた直盛ですが、当時72歳と高齢の直盛は八月の暑さで体調を崩し、病に倒れ四国を目前に大坂で亡くなってしまいました。
そこで、幕府は旅に随行した直盛の3人の息子に、6万8600石を分割する事とし、伊予西条3万石を長男の一柳直重に与え西条藩とし、北の川之江地域と播州小野地域の1万石と併せて2万8600石を次男の一柳直家に与え川之江藩とし、3男の一柳直頼には、伊予地方全域から見てほぼ中央1万石の小松藩を与えました。
この小松藩こそ、今回の記事の主役となる藩なのです。
徳川の譜代藩に包囲される小松藩
兄弟3名が近い所に所領を得た形になった小松藩ですが、力を合わせていく暇は余りありませんでした。まず、次男の一柳直家が死んだ時に直系の後継ぎが無かったので、伊予の領地は幕府に没収、領地は播州小野1万石に減封されました。次に本家筋の西条藩が、寛文5年(1665年)に3代目藩主の直興が不届きのかどありとして改易になり、領地を没収されます。そして西条藩には、紀伊徳川家系統の松平家3万石が入ってきました。
小松藩は分地を西条藩に囲まれ、分地の東は幕府直轄地の別子銅山、小松藩の本拠地である西の分地の西には久松系の松平家が支配する15万石の松山藩と接し、北西にある今治藩はその松山藩の支藩でした。
つまり、外様の小松藩は、周囲を親藩と天領に完全に包囲され雁字搦めだったのです。外様大名への監視が厳しい時代、小松藩は僅かな失政もするまいと、230年間に亘り緊張感を持って慎重に政治をしました。それが結果的には、餓死も一揆も起こさせない細心の気配りがされた善政に繋がったのです。
とても小さい小松藩
さて、小松藩がいかに小さかったかという話をしましょう。まず1万石というのは、大名と呼ばれる最低ギリギリのランクの石高でこれを下回ると大名とは呼ばれません。
江戸時代最大の外様大名として有名な加賀前田藩は102万石ありましたから小松藩は石高では1/100というミニサイズの藩である事が分かります。小松藩には町と言える規模の人口密集地はゼロで、周布郡11ヶ村と飛び地の新居郡4ヵ村の15村がその領域で領民の数は1万人を少し超える程度でした。
1万石の大名なので城はなく、敷地6300坪の木造平屋建ての陣屋が藩主の邸宅で、領民や家臣にはお館、御殿と呼ばれています。
そして、藩主のお館の近くには3ヵ所の寺と武家屋敷が並び、武家屋敷の区域の傍には「町」と呼ばれる東西二キロのメインストリートがあり、商人たちが在住。城下町には、蕎麦屋、居酒屋、宿屋、風呂屋、葬具屋などがまばらにあり、天保9年(1838年)調査では、屋敷207軒、人口は908人でした。
小松藩の家臣は70人、最下層の足軽や小者が100名、足軽や小者は一年ごとの臨時雇いでしたが3石の俸禄を与えていました。家臣団は江戸時代を通じて総勢でも200名を上回らず、今で言えば村レベルの藩だったのです。
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貧しかった小松藩
小さな藩でも、実は商業的に成功していたり、アイデアマンが出て危機的な財政を好転させたりなんて話が、時代劇やドラマで実話として紹介され話題を集めたりしますが、残念ながら小松藩には、大きな産業も財政を好転させるアイデアマンも出ませんでした。
珍しく豊作だった嘉永4年(1852年)の記録によると、その年の小松藩の収支は
・収入
年貢収入:5503石
借入米:1050石
買い入れ米:640石
繰り越し米:2650石
収入合計9800石
・支出
家臣の俸禄:1900石
藩役所の消費:700石
借入米の返済:900石
売却:3700石
支出合計7700石
差し引き2100石の黒字
次に貨幣経済の収支を見てみると
・収入
米の売却代金:343貫
借入銀:236貫
豪商の上納:78貫
繰り越し銀:346貫
総収入1097貫
・支出
参勤&江戸滞在費:250貫
借銀の返済:255貫
米の買い入れ:43貫
川普請費:18貫
雑出費:165貫
総支出731貫
差し引き366貫の黒字
これだけ見ると小松藩は、幕末においても財政は健全に見えますが、実際には、支払い能力がなく返済を停止している借金があり、それは米換算で4000石にもなっていました。また天明の大飢饉で大幅減収した小松藩では、家老以下中堅クラスの家臣の俸禄が30%にまで引き下げられ、家老を務める喜多川家は400石が120石に減俸されています。
さらに寛政6年には、それまで下げ幅を低く抑えられていた下級藩士についても、俸給50%という大幅な引き下げが命じられ、12石取りの小姓でも6石に減らされました。このような減俸は天明3年から11年も続き、商人や農民から藩に貸した金を返して欲しいと要求があると、我らもお引き米で苦しいのだ、と返答するのが常套句になります。小松藩の為に弁護すると、彼らは、こうなるまで決して何もしなかったわけではなく、新田開発や特産品の産み出しなど、出来る事に知恵を絞っていました。ところが、それらは天災等で上手く行かなかったのです。
餓死者を出さなかった奇跡の藩
ここまで、なんだか頼りない小松藩の状況を書いてきましたが、小藩であった小松藩には強みもありました。人口1万人と小さな共同体なので、武士から領民まで顔見知りで関係が近く、お互いの実情が手に取るようにわかったのです。また、江戸中期から小松藩では、経済的に苦しい武士と比較的富裕な農民との間の通婚も多く出てきます。小松藩の身分を超えた共感力は、大飢饉において遺憾なく発揮される事になりました。享保17年(1732年)春、虫の異常発生による虫害により秋の収穫はほぼゼロになり、四国全体に甚大な被害が出ます。
享保17年から18年にかけては、小松藩の近隣諸藩では
今治藩 餓死者113人 飢人2万6500人
松山藩 餓死者5705人 飢人6万5000人
このように、甚大な被害が出ていますが、小松藩でも領民の4割が飢餓状態にあるという深刻な状態でしたが1人の死者も出なかったのです。
大きな理由は、小藩である為に藩庁が領内の隅々まで不作の兆候を把握し、早急に対策を立てた事でした。さらに、小松藩が日頃から飢饉に備えて2000石近い備蓄米を蓄えていた事も大きかったようです。小松藩では、天明2年(1782年)の大洪水による凶作に始まり、寛政4年(1792年)まで断続的に洪水や日照りが続きます。これにより、生活が極めて難渋な人々が大勢出ましたが、小松藩は1人につき1日米1合を支給して救済しました。
また7年続いた天保の大飢饉では、領内で3050名もの生活困窮者が出たので、この時も藩から救済米215石を支給し、さらに最も困窮した村には、他の村にも積極的に支援を呼びかけ、領民一体で飢饉を乗り越えたのです。決して裕福ではなく、むしろ借金にあえいでいた小松藩。それでも飢饉にあたっては出し惜しみせず領民を助け、村々に呼び掛けて犠牲者を防いだ小松藩は、日本一領民に優しかった藩と言えるのではないでしょうか?
日本史ライターkawausoの独り言
江戸時代に300を数えた藩の中には、豊富な物産を持ち富裕な藩も少ないながらあります。しかし、富裕な藩が必ずしも領民に優しいとは言えず、大藩になると、城下町に住む上級武士は、庶民の生活などを見る機会もなく、藩を優先する政治をして庶民の苦しみには無頓着な事も多くありました。
小松藩は、飢饉の餓死者0だけではなく、藩の記録を見る限り一揆も起きていません。もちろん、きれいごとばかりでなく、飢饉時には数千人の農民が待遇改善を求めて集まり、一触即発の時はありましたが、それは庄屋と藩役人と村人の話し合いで回避されました。
外聞を気にしたという点は確かにありますが、小松藩は領民から逃げず、負担を押し付けず、上は藩主から下役人に至るまで、藩政に誠意を尽くしたからこそ、江戸230年間を通じて餓死者0、一揆0の善政を敷く事が出来たのでしょうね。
参考文献:小さな藩の軌跡 伊予小松藩会所日記を読む
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