鎌倉時代

やられたらやり返す!怖いけどスマートな武士の報復を紹介

真田信繁

 

ドラマ半沢直樹(はんざわなおき)で有名になった、「やられたらやり返す、倍返しだ!」のセリフ。穏やかな性格の人にとっては、半沢直樹のやり方は報復の連鎖しか生まないと否定的に考える人もいるようです。

 

しかし、ゲーム理論によると相手に(だま)されても報復しないプログラムより、相手に騙されたらきっちり報復するプログラムの方が、トータルで得られる利益は報復しないプログラムより多くなるそうです。倍返しは兎も角、やられたらやり返すのは人生においてプラスに作用するわけですね。

 

余談はさておき、武士は恥をかかされたら報復しないではおかない種族でした。今回は殿下乗合事件(でんかののりあいじけん)より、松殿基房(まつどのもとふさ)にキッチリ報復した平重盛(たいらのしげもり)を紹介します。

 

交通トラブルを頻発させた路頭礼

Changan(長安)

 

平安時代、都の通りを行き交う牛車や騎馬には路頭礼(ろとうれい)という社会慣習がありました。簡単に言うと、道路で牛車(ぎっしゃ)と牛車がバッタリ遭遇した時、目下の牛車が道を譲り目上の牛車が通り過ぎるまで見送って礼を尽くすという習慣です。

 

礼の尽くし方は身分差により幾通りもあり、簡単に脇に避けて目上の牛車を先に通すだけのものから、目下の者が牛車から出て地面にひざまづき、頭を45度下げるものまでありました。ただ、厄介なのは、路頭礼は法律ではないので、決まった形式がなく、相手に対しどの程度の礼を取るかは双方の価値観に委ねられるという事です。

 

もし、双方の価値観が著しく乖離(かいり)している場合「無礼者!」という話になり、双方の人員が入り乱れて大喧嘩(おおげんか)になる事も頻繁に起きていました。平安時代末期の嘉応(かおう)2年(1170年)7月に起きた殿下乗合事件も、そんな路頭礼がこじれておきた事件でした。

 

松殿基房、平資盛の牛車を襲撃

五重塔(仏塔)仏教

 

嘉応2年7月の夜、摂政、松殿基房を乗せた牛車が法勝寺での法華八講への途上、平資盛(たいらのすけもり)の牛車と鉢合わせしました。当時の京都は平家の天下であり、棟梁平清盛は太政大臣にまでなっていました。清盛の嫡男の平重盛は、権大納言(ごんだいなごん)で平資盛は重盛の嫡男、つまり将来の平家の棟梁になる身分です。

 

しかし、その日資盛は戯れに女官の牛車に乗っていました。ところが、そんな事は知る由もない松殿基房の従者は、女官風情(ふぜい)が摂政の牛車にひれ伏さないとは無礼であると怒り、資盛の牛車の従者を殴る蹴るし牛車を打ち壊します。

 

ところが、牛車から出てきたのは平家の御曹司(おんぞうし)、平資盛9歳でした。青くなった基房は直ちに、従者を平重盛の屋敷に走らせて謝罪し、資盛に暴力を振るった従者を突き出しました。事態を把握した重盛は、基房の従者を帰します。許したからではありません、こんな下っ端を処罰した程度で平家の恥は(そそ)げぬと謝罪を拒否したのです。

 

【蒙古が海からやってきた】
アンゴルモア合戦記の特集

 

松殿基房の体面を潰すまで倍返しだ!

京都御所

 

従者が帰って来たのを見て基房は震え上がりました。なんとか許してもらおうと、自ら乱暴狼藉に加わった従者をクビにした上で、実行犯は検非違使(けびいし)に引き渡し、トカゲのしっぽ切りに終始します。ところが、基房自身は決して謝ろうとはしませんでした。もちろん、あれは従者が勝手にした事という正当な理由もありましたが、摂政という天皇を代行する地位である自分が武士如きに謝れるかという意地が邪魔したのです。それに対し、重盛は着々と報復の準備を整えていました。

 

悪党(鎌倉)

 

摂政である基房が御所に参内する日に合わせ、一族郎党を基房の屋敷の通りに配置して牛車を襲撃するように手配したのです。まるで、大勢のヤンキーが道のど真ん中でタバコを吹かし、ウンコ座りしているようなもので基房は怖くてたまりません。牛車は何度も、屋敷を出ては引き返すを繰り返しました。ところが基房がいよいよ逃げられない日がやってきます。10歳になった高倉天皇の元服の日がやってきたのです。

 

Emperor(天皇のシルエット)

 

この晴れの舞台に、摂政が不在という事はあり得ないので、基房は覚悟を決め御所に向かって牛車を向かわせます。

 

倍返し達成!

三国志のモブ 反乱

 

不安な気持ちで基房の牛車が内裏に向かう途中、大炊御門(おおいのみかど)堀川(ほりかわ)の交差点辺りで、突如、大勢の武士が出現し牛車に襲い掛かりました。

 

「オラオラオラァ、なにをちんたら歩んでやがる、武士をなめたらブチ殺すぞゴルァ」

 

と言ったかどうか不明ですが、武士は怒鳴り声を上げつつ、基房の従者を馬から引きずり落としその(まげ)を刀で切り落としてしまったのです。基房は、あまりの恐ろしさに屋敷に逃げ戻り、高倉天皇の元服式は延期となりました。天皇の晴れ舞台を勤められなくなった事で、基房は満天下に恥を(さら)します。

 

それもこれも全て重盛の計算の内でした。天皇の元服式ではどうしても基房が出てくるだろうと踏んで、御所の近くに手下を配置し虎視眈々(こしたんたん)と牛車を待っていたのです。天皇に迷惑を掛ける事になろうと、平家に恥を欠かせた償いは必ずさせるというのが、やられたらやりかえすという武士の基本行動だったのです。

 

スマートな重盛の報復

騒いでいる公家

 

それから3日後、重盛は基房と共に宮中に姿を現しました。もう喧嘩は終わりました、これからは仲良くしましょうという事をPRする為です。しかし、その日、重盛を護衛する武士は普段の何倍もいて、殿上の公家を睨みつけていたと言われています。

 

皆さん、平家をなめると、基房様のような目に遭いますよ?

その事をどうか心の片隅に置いておいてくださいね

 

重盛は、大勢の武士を従えて見せる事で、平家をなめたら倍返しという事を居並ぶ公卿の目に焼き付けたのです。恐ろしい重盛ですが、よく見ると重盛は基房の従者を馬から引きずり下ろし髷を切っただけで身体を傷つけてはいません。ましてや基房には指一本触れていないのです。

 

さすがに、基房を傷つければ平家一門と言えど、ただでは済まないと知って自重しているわけで、重盛は感情的に報復しているわけではないのです。重盛の報復はゴッドファーザー的な武士の論理から来た掟でした。

 

日本史ライターkawwausoの独り言

kawauso

 

平家物語では、横暴な父、平清盛を抑える良識派の役割を演じる重盛ですが、史実の重盛は、平家棟梁として一門をまとめ、その頂点に君臨し、叛く者に容赦しないゴッドファーザーだったようです。しかし、この報復の論理がなければ、弱肉強食の政治の世界で平家は生き残ってはいけなかったんでしょうね。

 

参考文献:京都の誕生 武士が造った戦乱の都

 

関連記事:鎌倉時代の警察の役割を果たした「守護」を分かりやすく解説

関連記事:はじめての平家物語1話「祇園精舎どこにある?」

 

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