ほのぼの日本史をご覧の皆さん、今週も1週間お疲れさまでした。今回のお疲れキャラは西郷どんです。
明治六年の政変で下野した西郷ですが、共に下野した板垣退助は西郷が帰国する時
「しばらく会っていなかったので中傷などもあり、お互いに疎遠になっていた。しかし、君とは志も同じだから今後は互いに協力しよう」と言いました。
すると西郷どんは大笑いして「君と協力すれば確かに無敵かも知れない。しかし、政府に対するには得策とは言えない。だから私は助けてもらおうとは思わない。もし、私に反対しても恨みはしないからどうか私の事は放っておいて欲しい」と答えたそうです。
そして、板垣等が目指した国会開設の元である民選議院については「賛成だが、言論でそれが成立するとは思えない、まずは政権を取ってからにした方がいい」と答えました。
板垣は、世間は西郷を武断派のように言うがこの事からも彼は民選議院派である、ただ方法が違うだけなのだと語っています。言論で全てを決すると言うのは今では当たり前のようですが、明治の初期はそうではありませんでした。民権派がいかに言論で政府と戦おうとしても大久保は民権派を擁護する新聞の発行を停止し、御用新聞をどんどん刷らせて世論を造りそれでもダメなら法律を変えて民権派を逮捕してしまいます。
政府と民権派では話にならない力の差があったのです。これこそが、「言論で政治を動かしたいならまず政権を取りなさい」と西郷どんが言った真意なのだと思います。
参考文献:西郷隆盛はどう語られてきたか? 新潮文庫
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