平安時代

まろの頂点!藤原氏が日本を支配していくまでを徹底解説してみた!

騒いでいる公家

 

日本の貴族の頂点といえば、それは藤原氏でしょう。

 

「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる事もなしと思えば」とゴーマンかました藤原道長(ふじわらのみちなが)や律令の制定に深く関与した藤原不比等(ふひと)、近代では3度も総理大臣になった近衛文麿(このえふみまろ)も藤原氏の出身です。

 

藤原氏の祖が大化の改新で功績を立てた中臣鎌足(なかとみのかまたり)である事は知られていますが、では、鎌足以来、藤原氏はどうやってまろの頂点に登ったのでしょうか?

 

藤原鎌足の台頭と死後

聖徳太子

 

藤原氏の祖である中臣鎌足は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の腹心として蘇我氏(そがし)粛正に関与し乙巳の変(いっしのへん)から大化の改新に至る諸改革に取り組みました。その功績から死の直前に天智天皇より鎌足の生地である大和国高市郡藤原(やまとのくにたかいちぐんふじわら)に因んで藤原姓を与えられたのが藤原氏の最初です。

 

しかし、この時に鎌足に与えられた藤原姓は鎌足一代のものであったそうです。

 

鎌足の活躍で勢力を伸ばした中臣氏ですが、中臣氏を率いた右大臣、中臣金が壬申の乱で大友皇子側について敗北、処刑。大海人皇子(おおあまのおうじ)が文武天皇として即位すると敵方にいた中臣氏の心証は悪くなりました。この衰退気味の中臣氏に登場し、後の藤原氏全盛の基礎を築いたのが中臣不比等(なかとみのふひと)です。

 

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藤原不比等の登場

京都御所

 

中臣不比等は西暦659年、藤原鎌足を父として誕生します。不比等が11歳の時に父鎌足が死去、その後天智天皇も崩御し、皇位は天智天皇の子の大友皇子と天皇の弟の大海人皇子で争われる事になりました。

 

この壬申(じんしん)の乱の時、中臣一族は天智天皇に重用された事もあり、右大臣、中臣金(なかとみのくがね)以下の一族が大友皇子に味方しますが戦争は大海人皇子サイドの勝利で終ります。これを受けて中臣金は処刑されますが、当時13歳の不比等は任官前なので処罰を免れました。

 

しかし、天武天皇朝で中臣氏は朝廷の重要ポストからは一掃され、不比等も特別扱いされる事もなく大舎人(おおとのねり)の登用制度により出仕し下級官人からスタートします。

 

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【古代日本の誕生秘話】
大和朝廷

 

 

不比等が頭角を現す

公家同士の会議(モブ)

 

不比等は従兄弟の中臣大嶋(なかとみのおおしま)草壁皇子(くさかべのみこ)に仕え、法律や文筆の才で登用され頭角を現していきます。

 

西暦697年持統天皇(じとうてんのう)が譲位すると、不比等は草壁皇子の息子軽皇子(かるのおうじ)の擁立に尽力、皇子が文武天皇として即位すると大宝律令(たいほうりつりょう)の編纂で中心的な役割を果たし政治の表舞台に登場します。

 

さらに、阿閉皇女(あへのひめみこ)付き女官で持統天皇末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられる橘三千代(たちばなのみちよ)の力添えで皇室との関係を深め、文武天皇の即位後に娘の藤原宮子(ふじわらのみやこ)が天皇夫人になりました。

 

685年以前に、中臣氏には天武天皇より藤原姓が与えられていましたが、その時には不比等の一族ばかりではなく、全ての中臣氏が藤原姓に改姓していました。

 

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不比等外戚政治を完成させ死去

朝廷(天皇)

 

しかし、文武天皇に不比等の娘が輿入れした後は、不比等の勢力が強まり藤原氏が太政官、中臣氏が神祇官を掌握するようになったので、698年に鎌足の嫡男、不比等の家系以外は元の中臣氏に戻されます。

 

文武天皇に輿入れした藤原宮子が首皇子(おびとのみこ)を産むと、不比等は皇子の後宮にも娘の光明子を入れます。やがて首皇子は聖武天皇として即位。光明子は聖武天皇の皇后となり不比等は聖武天皇の祖父であり光明皇后の父という絵に描いたような外戚(がいせき)に台頭しました。

 

藤原氏のお家芸である天皇の後宮に娘を送り込み男子が誕生すると外戚として権勢を奮うシステムは藤原不比等の時代に完成していたのです。

 

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藤原四兄弟、皇族長屋王を排斥!

 

不比等の死後は、不比等の男子、武智麻呂(むちまろ)房前(ふさまえ)宇合(うまかい)麻呂(まろ)の藤原戦隊マロマロフォーと天武天皇の孫である長屋王(ながやおう)ら皇族の間で対立が激化します。

 

西暦729年長屋王の変が起こり長屋王は自害しますが、この背景には藤原四兄弟が自分達の異母妹で天皇の妃である藤原光明子(ふじわらこうみょうし)を史上初の皇族出身以外の皇后に立てる為の陰謀事件であったとされます。

 

また事件は藤原氏を実家とする聖武天皇(しょうむてんのう)にとっても好都合である事から、天皇の意向を受けた政変であったと考えられています。

 

この後、藤原四兄弟は、武智麻呂の南家(なんけ)、房前の北家(ほっけ)、宇合の式家(しきけ)、麻呂の京家(きょうけ)の4家に分離し藤原四家の祖となりました。天平3年(731年)役人たちの投票で藤原四兄弟は全員が議政官に上り、後宮のみならず官僚組織を牛耳る事にも成功します。

 

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四兄弟疫病に倒れ、藤原仲麻呂が台頭

疫病が流行った村

 

ところが好き放題やってきた天罰が下ったのか、天平9年(739年)天然痘(てんねんとう)の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死します。

 

それを受けて、反藤原勢力である橘諸兄(たちばなのもろえ)玄昉(げんぼう)吉備真備(きびのまきび)が結託して藤原氏の勢力を抑えようとしますが光明皇后の信任を得た南家の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が登場。

 

天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757年)橘奈良麻呂(たちなばのならまろ)の乱で諸兄の子奈良麻呂を排除し、再び藤原氏として独裁的な権力を振るいますが、孝謙上皇(こうけんじょうこう)の寵愛を得た道鏡(どうきょう)が台頭し、天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱で敗死しました。

 

藤原仲麻呂の失脚で藤原氏勢力は停滞しますが、仲麻呂の独裁政権下では距離を取り、または仲麻呂に反抗的だった式家の藤原良継(ふじわらのよしつぐ)藤原百川(ふじわらひゃくせん)兄弟や藤原北家藤原永手(ふじわらながて)が仲麻呂死後に頭角を現し持ち直します。

 

以後は南家・北家・式家で勢力を競いますが、政争や一族の反乱で南家と式家は平安前期に衰退、北家が藤原氏を代表する勢力になりました。(京家は奈良時代に没落)

 

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人臣初の摂政・太政大臣 藤原良房

 

藤原氏は南家の藤原仲麻呂が反乱を起こして没落した後、北家藤原永手の弟の藤原真楯(ふじわらのまたて)から再び繫栄します。

 

真楯の子の藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)は桓武、平城(へいぜい)嵯峨(さが)の三代の天皇に仕え伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣に慣れずに終わった真楯よりもワンランク上の右大臣となります。

 

内麻呂の子の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)は、桓武、平城、嵯峨、淳仁(じゅんじん)朝に仕え、左大臣にまで昇進、さらにその子である藤原良房(ふじわらのよしふさ)は嵯峨天皇の皇女で臣籍降下していた源潔姫(みなもとのきよひめ)を降嫁され、嵯峨天皇の信任を受けて権勢を奮いました。

 

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承和の変で藤原北家以外の勢力を排斥

三国志のモブ 反乱

 

弘仁14年(823年)嵯峨天皇は譲位し、弟の淳和天皇が即位し、次に皇位は嵯峨上皇の子の仁明天皇に引き継がれます。この時、仁明天皇の皇太子には恒貞親王(つねさだしんのう)が立てられました。しかし、この時には藤原良房の妹の順子が仁明天皇の中宮となり道康親王(みちやすしんのう)が誕生していました。

 

当然、良房は自分の甥である道康親王の即位を望み、恒貞親王と淳和上皇は嵯峨上皇に皇太子辞退を奏請いますが上皇に慰留されています。

 

承和7年(840年)淳和上皇が崩御し、2年後の承和9年には嵯峨上皇も重い病に臥しました。これに危機感を持ったのが恒貞親王に仕える春宮坊帯刀舎人(とうぐうぼうたちわきとねり)伴健吟(とものこわみね)とその盟友の但馬権守(たじまごんのかみ)橘逸勢(たちばなのはやなり)で、2人は皇太子を東国に移す事を考えて、その事を阿保親王(あぼしんのう)に相談します。

 

しかし親王は同調せず逸勢の従姉妹の檀林皇太后に健岑の策謀を密書で上告。皇太后は中納言(ちゅうなごん)、良房に相談、良房は仁明天皇へ上告します。

 

7月15日に嵯峨上皇が崩御すると同月17日に仁明天皇は伴健岑と橘逸勢、その一味とみなされるものを一斉に逮捕し六衛府に命じて京の警備を戒厳令レベルに強化しました。慌てた恒貞親王は辞表を天皇に差し出しますが、皇太子に罪はないものとして一旦慰留されます。

 

しかし、7月23日になると政局は大きく変化し、良房の弟、左近衛少将藤原良相が近衛府の兵を率いて皇太子の座所を包囲。出仕していた大納言藤原愛発(ふじわらのちかなり)、中納言藤原吉野(ふじわらのよしの)、参議文室秋津(ぶんやのあきつ)を逮捕しました。

 

仁明天皇(にんめいてんのう)は詔を発して伴健岑、橘逸勢らを謀反人とし恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるために皇太子を廃嫡しました。こうして、反良房派はクーデターの片棒を担いだとして一掃され、仁明天皇は道康親王を皇太子に任命、彼が後に即位して文徳天皇(もんとくてんのう)になります。

 

これを承和(じょうわ)の変と言いますが、黒幕は藤原良房であり、橘氏、大伴氏、そして藤原北家以外の藤原氏が大量に排斥されました。藤原良房は清和天皇の外戚となり皇族以外で最初の摂政へと昇り、幼少期の天皇の政治を補佐する事になります。

 

藤原良房の子である基経もまた陽成天皇の外戚として摂政と関白を務め、藤原忠平(ふじわらのただひら)藤原師輔(ふじわらもろすけ)藤原兼家(ふじわらかねいえ)と摂政、関白を歴任していき、藤原道長、藤原頼通(ふじわらよりみち)で摂関政治は頂点を迎える事になりました。

 

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院政により藤原氏の権勢が陰る

 

先祖の藤原不比等以来、娘を天皇の妃として皇子を産ませる事で外戚としての権力を維持していた藤原氏ですが、70代後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)には皇子が生まれず遂に後朱雀天皇(ごすざくてんのう)の子で藤原氏を外戚としない後三条天皇が71代の天皇として即位します。

 

後三条天皇は摂関家(せっかんけ)の藤原氏に反発する藤原能長(ふじわらのよしなが)や村上源氏の源帥房(みなもとのもろふさ)源経長(みなもとのつねなが)を登用し、同時に大江匡房(おおえのまさふさ)や藤原実政(さねまさ)のような中級貴族を登用し積極的な親政をおこない、同時に摂関家に近い貴族にも報復をおこなわないように命じ、人事はあくまで公平にすると明らかにしました。

 

後三条天皇は荘園整理令を発布して違法な荘園を没収するなどしたので、大荘園主であった藤原摂関家の経済基盤に打撃を与えます。一方の摂関家ですが、藤原頼通と教通(のりみち)兄弟が対立関係にあり、外戚関係もないので摂関政治への回帰を計る事は出来ませんでした。

 

さらに、後三条天皇を継いだ白河天皇(しらかわてんのう)は幼い堀河天皇(ほりかわてんのう)に譲位して院政を敷き、律令制からも脱却したので、藤原北家は政治的にも上皇を牽制できず、結局は上皇につく側と天皇につく側で摂関家が分裂するなどし、保元、平治の乱を経て勢力が後退します。

 

鎌倉幕府が成立すると、政治の表舞台で影響力を行使する事もなくなり藤原氏は朝廷における名門としての地位に留まる事になりました。

 

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鎌倉時代以降

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

鎌倉時代に入ると、藤原北家はさらに近衛(このえ)鷹司(たかつかさ)九条(くじょう)二条(にじょう)一条(いちじょう)の五つに分立し五摂家が交代で摂政・関白を独占し公家社会では幕末まで一定の影響力を持ち続けます。

 

豊臣秀次

 

安土桃山時代になると、豊臣秀吉が近衛前久(このえさきひさ)の養子として近衛家に入り、関白となり、さらに甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に関白を譲って世襲の構えを見せ、五摂家に緊張が走りますが豊臣政権が没落すると、徳川幕府は関白の地位に興味を示さなくなります。

 

結果、明治維新に至るまで摂政関白は、五摂家の独占物となりますが江戸時代の朝廷は、軍事的にも経済的にも無力であり、五摂家の影響力も日本全体に及ぶようなものではなくなりました。

 

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幕末のおじゃるズ公家
公家

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は、ながいながーい藤原氏の栄光について解説してみました。藤原不比等以来、決して順風満帆な時ばかりではない藤原氏でしたが勢力後退してもすぐさま、別の人材が台頭し完全に没落しきる事がなかったのが、長期に渡り権力を維持した秘訣だったのかなと思いました。

 

また、同じ藤原氏でも一方的に権力者にすり寄るのではなく敵方について対立し藤原氏が没落した時でも、すぐに敵方で活躍して結果、藤原の勢力を残すなど生き残り戦略にも巧みな一族だなと感じます。

 

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