壇ノ浦の戦いは、寿永4年(1185年)4月25日に起きた、源氏と平家の最後の海戦です。この戦いでは平家の水軍が潮の流れに乗って午前中は源氏を圧倒していたものの、午後になり潮の流れが反転して逆に源氏に押し込まれて敗戦したと語られてきました。
しかし、最近の研究では壇ノ浦の勝敗に潮の流れの変化は関係なかったようなのです。
この記事の目次
壇ノ浦の戦いわかりやすく
では、最初に壇ノ浦の戦いについてザックリと解説します。
1 | 寿永2年(1183年)7月木曾義仲に攻められた平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちする |
2 | 源頼朝が木曾義仲と抗争すると平家は摂津国福原まで進出。 |
3 | 寿永3年(1184年)2月平家は一ノ谷の戦いで大敗を喫し海に逃れ讃岐国屋島と長門国彦島に拠点を置く |
4 | 源頼朝は弟の範頼に3万騎を率いさせ山陽道を進軍して九州に入り平家の背後遮断を試みるが兵糧不足と平家水軍の抵抗で膠着 |
5 | 源義経は後白河法皇に願い出て平家追討の許可を得て屋島に進軍する。 |
6 | 寿永4年(1185年)義経は奇襲によって屋島を攻略。 平家の総大将平宗盛は安徳天皇を奉じて海上に逃れ志度に立て籠もる。しかし、志度でも義経に追われ彦島に移動。 |
7 | 源範頼は兵糧と兵船の調達に成功して九州に渡り、同地の平氏方を芦屋浦の戦いで破り平家軍は彦島に孤立。 |
8 | 源義経は、渡辺水軍、河野水軍、熊野水軍を味方につけ840艘の船で平家の500艘の船に立ち向かい撃破。平家は滅びる |
以上がザックリした壇ノ浦の戦いの解説です。以下では、もう少し詳しく壇ノ浦の戦いについて見ていきましょう。
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壇ノ浦の戦い 場所
壇ノ浦の戦いは長門国赤間関壇ノ浦、現在の山口県下関市で起こりました。
源氏の総大将源義経は、彦島の平家水軍を撃滅すべく840艘の水軍を率いて、自ら先陣を切ると言います。しかし、幕府重臣梶原景時も先陣を望んで譲らず押し問答になり景時は、「総大将が先陣とは聞いた事がない!義経は将の器ではない」と義経を嘲笑し斬り合い寸前になります。
結局は義経のゴリ押しが通り先陣となりますが、これが景時と義経の遺恨の原因となり義経没落の切っ掛けになったと平家物語、吾妻鏡には書かれています。
一方の平家水軍は500艘で、内訳は松浦党が100余艘、山鹿秀透300余艘、平家一門100余艘の編成で平宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取りました。
平家物語では、知盛は通常安徳天皇や平家の本営が置かれる大型の宋船に兵を潜ませ、安徳天皇の身柄を狙う源氏の兵船を引き寄せて包囲する作戦を立てていたようです。
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壇ノ浦の戦い中盤
攻め寄せる義経水軍に対して知盛率いる平家軍は彦島を出撃し正午頃に両軍は激突。この時、源範頼は3万の軍勢で陸地に布陣して平家の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援しました。
関門海峡は潮の流れが激しく、水軍の運用に長けた平家は潮の流れを利用して義経水軍に押し込んでいき、義経軍は満珠島、干珠島あたりまで追いやられ、平家方は義経を討ち取ろうと攻め掛かります。
ここで不利を悟った義経が敵船の漕ぎ手を射るように命じたとされますが、平家物語には、そのような描写はなく、すでに大勢が決し安徳天皇が海に身を投げた段階で源氏の兵が平家の船に乗り移り船頭を斬り殺したとされています。
また、平家物語では阿波重能の水軍300艘が義経に寝返り、平家軍の宋船おびき寄せの計略を告げ、知盛の包囲殲滅作戦が失敗し平家の敗北は決定的になったと記します。
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壇ノ浦の戦い エピソード
やがて潮の流れが反転し義経は猛攻撃を仕掛けます。平家の船は潰滅状態となり勝敗は決しました。
平家物語では敗北を悟った平家一門の武将、平家の女性たちや幼い安徳天皇が次々に自殺。栄華を誇った平家の滅亡という諸行無常を映して物語は幕を閉じます。
特に平清盛の正室、二位の尼が孫で8歳の安徳天皇をしっかりと抱き寄せ
「朕をどこに連れてゆくのじゃ?」と問う安徳天皇に
「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございますよ」と答え入水自殺するエピソードは印象的です。
ただ実際は安徳天皇を抱いて入水したのは二位の尼ではなく按察の局であるようです。按察の局は入水後源氏の兵士に引き上げられて助かり、尼となって千代と名乗り平家の人々の菩提を弔い、村人には加持祈祷を行い慕われました。
壇ノ浦の戦い 人物
壇ノ浦の戦いで目立つのは勝者である源氏武将より敗者の平家武将です。
特に平家きっての豪傑、平教経は源氏の武者を斬りまくりますが、多勢に無勢で平家の敗北が確定すると、
「今生の別れに義経の首をあげん」と義経に飛び掛かり、義経は難を避けようと船から船へと逃げ回り事なきを得ました。
これが有名な義経の八艘飛びですが、これは平教経から逃げている様子なのです。
義経の首が獲れないと悟った教経は源氏の怪力武将を2名相手にすると、1名を海に蹴り落し、残りの一名の首を抱きかかえて
「冥途へ供してもらうぞ!」と叫ぶや海に飛び込み、先ほど海に落した男と2人の首を抱えて海中深く沈み二度と浮かんできませんでした。
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三種の神器
三種の神器については、天叢雲剣は二位の尼が腰に差して入水し、その後捜索するも出てきませんでした。八咫鏡と八尺瓊勾玉については、女官が抱いて入水する前に捕縛されたので無事に朝廷に戻ったようです。ただ海中に没した天叢雲剣は模造品で本物は熱田神宮に鎮座しているという説もあります。
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潮流反転勝利は大正時代の新説
さて、壇ノ浦の戦いの勝敗が潮の流れの反転で決定したと書きましたが、潮流については合戦について簡潔にしか記していない「吾妻鏡」には記載がなく、軍記物の「平家物語」でも平家が追い潮で源氏が迎え潮であった事は記述されても潮流が反転して戦況が一変したという筋立てにはなっていません。
そもそも、潮流が変化して義経が勝利したという話は大正3年に黒板勝美東京帝国大学教授が著書「義経伝」で提唱したかなり新しい説なのです。もっとも黒板も口からでまかせでこの説を唱えたわけではありません。
黒板は、海軍水路部の元暦2年3月24日(グレゴリオ暦で5月2日)の関門海峡の潮流の調査を元にして、午前8時30分に西の潮流が東へ反転し午前11時頃に8ノットに達し、午後3時頃には再び西へ反転する事を明らかにします。
そして壇ノ浦の合戦が行われた時間を、当時の史料「玉葉」の記述。午の刻12時頃から申の刻(16時頃)が正しく、合戦は午後に行われたとし潮流が東向きだった時間帯は平家優勢、潮流が反転し西向きになった時に形勢が逆転し、源氏が優勢になったと結論付けました。
この黒板説は壇ノ浦の戦いについて初めて科学的検証をしたもので、最も権威あるものとして定説化し広く信じられるようになります。
潮流は壇ノ浦の戦いに影響していない
しかし、黒板説には近年反論が出ています。海事史の金指正三博士は潮流をコンピュータで解析。合戦の行われた日は小潮流の時期で8ノットという早い潮流はなく、また海軍水路部の調査は海峡が最も狭くなっている早鞆瀬戸であり、ここで千艘以上の兵船で戦うのは不可能である事を指摘。広い満珠島や干珠島辺りの海域の潮流は1ノット以下であり、合戦に影響を与えるものではないと結論づけました。
そして壇ノ浦の合戦時間についても吾妻鏡の午前中という記述を否定すべきではなく、吾妻鏡の通り、壇ノ浦合戦は午前中に始まり正午には終わったとする説も根強くあります。
科学的と言われるとよく考えずに納得してしまいがちですが、実際はデータをどう扱うかでかなり差が出るものであり、壇ノ浦の戦いの勝敗も潮流の劇的な変化が主要因とは言えなくなっているのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
では壇ノ浦の戦いの本当の勝因は何なのか?
これは、源範頼が九州を抑えて平家の逃げ道を塞ぎ九州の平氏勢力を滅ぼし、逃げる事が不可能になった平家方の士気が非常に低下していた事。平家の補給が乏しく弓矢も不足したので途中から源氏に矢を打たれる一方になった事
これらの点から、続々と源氏に投降する平家の兵士が増え、当初は平家に味方していた海賊も寝返った事などが挙げられます。なーんだ平凡な理由だなと感じてしまいますが、大半の合戦はそんなもので物資欠乏と味方の裏切りが敗北に繋がるケースは幾つもあります。
平家滅亡と義経の悲劇を考えると奇跡的な勝利というボーナスが欲しくなりますが、リアルな戦場では、やはりそういう事は滅多にないのでしょう。
参考:Wikipedia
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