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源義経はどんな人?実は名門出でプライドが高い?元祖異世界転生英雄の生涯

20/06/2021


源義経

 

源義経(みなもとのよしつね)は日本史上最初の英雄とも言われます。

 

英雄とは、ただ強く賢く慈悲深いだけでなく多くの人々に慕われ尊敬される存在の事で、死後800年以上が経過しながら、今でも映画、小説、ドラマ、ゲームに登場する源義経は英雄、それも悲劇の英雄と呼んで差支えないでしょう。

 

今回のほのぼの日本史では、そんな悲劇の英雄、源義経を解説してみます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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源義経は何をした人?

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

源義経は平安時代末期の武将で、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝の異母弟です。

 

平治元年(1159年)河内源氏(かわちげんじ)棟梁(とうりょう)、源義朝の9男として生まれますが、直後に義朝が平治の乱に破れ討死。僧侶になる事を条件に清盛に助命され鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、成長して後に平泉に下り藤原秀衡(ふじわらのひでひら)庇護(ひご)を受けます。

 

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

治承(じしょう)4年(1180年)兄の頼朝が平家打倒の兵を挙げると義経も源氏の武将として合流。頼朝が鎌倉で地盤固めをする間、事実上の源氏の総大将として、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦で連戦連勝、元暦(げんれき)2年(1185年)平家を滅ぼしました。

 

しかし平家滅亡後、義経は頼朝の許可を得ずに朝廷から官位を得たり、平家との戦いで独断専行があったとして頼朝の不信を買い、それに対し自立の動きを見せ朝敵とされます。

 

三国志のモブ 反乱

 

義経は奥州に逃げ藤原秀衡を頼りますが、秀衡死後、当主になった藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は鎌倉幕府の恫喝に負け現在の岩手県平泉にある衣川館(ころもがわやかた)に義経を攻め義経は自殺しました。

 

義経は30歳で亡くなりますが、歴史を辿れるのは頼朝に仕えてからの9年間のみであり、幼少期から青年期は伝説に彩られる存在となっています。

 

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源義経に弁慶という部下はいた?

比叡山の僧兵(僧侶)

 

源義経と言えば従者の大男、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)ですが、現在広く知られている長刀(なぎなた)を振るう僧形の弁慶は義経記を始めとした後世の創作物を元にしたものです。当時の文献としては吾妻鏡(あづまかがみ)に義経につき従う義経郎党として弁慶法師、武蔵坊弁慶という名前が記録されるのみで出自や業績、最後についての言及はありません。

 

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ただ、吾妻鏡や玉葉(ぎょくよう)によると都落ちの後に周辺に潜伏する義経を比叡山の僧兵が庇護し、その中の俊章(しゅんしょう)という僧は義経を奥州まで案内したとされます。

 

また千光房七郎(せんこうぼうしちろう)という悪僧が北条時定が捕縛されるなど義経と僧兵には関係があり、これらの出来事が誇張され武蔵坊弁慶のキャラクターが創造されたのではないかと考えられています。

 

まとめると武蔵坊弁慶は存在するものの、比叡山の僧兵で五条大橋で牛若丸と戦うというような逸話はなく、存在以外は後世の創作です。

 

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源義経 一ノ谷の戦い

祁山、街亭

 

一ノ谷の戦いは、それまで無名だった源義経の名を一躍有名にした戦いです。寿永2年(1183年)倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで源義仲に敗れた平家は兵力の大半を失い、安徳天皇と三種の神器を奉じて大宰府(だざいふ)に逃れます。

 

しかし、義仲は京都の統治に失敗し後白河法皇とも対立、平家とも水島の戦いで敗戦しました。後白河法皇は義仲を見限り、鎌倉の頼朝を頼ろうとしますが、これに義仲は激怒し後白河法皇を幽閉します。

 

これにより義仲は完全に求心力を失い、平家と和睦しようとして拒否され、寿永3年(1184年)宇治川の戦いで義経と範頼の鎌倉政権軍に攻められて大敗し滅亡しました。

 

公家同士の会議(モブ)

 

この源氏の内輪もめの間に勢力を盛り返した平家は大輪田泊(おおわだどまり)に上陸して福原に進出。瀬戸内海を制圧して中国、四国、九州を支配し数万騎を擁するまでに回復しました。

 

後白河法皇は頼朝に平家追討と三種の神器奪還を命じ、義経は源範頼(みなもとののりより)とともに平氏追討の命令を受け、搦手軍(からめてぐん)を率いて播磨国へ迂回。三草山(みくさやま)の戦いで夜襲によって平資盛(たいらのすけもり)らを撃破。範頼は大手軍を率いて出征します。

 

一ノ谷の戦いで義経は精兵70騎を率いて、鵯越(ひよどりごえ)の峻険な崖から逆落としを掛けて平氏本陣を奇襲。予期せぬ奇襲に平氏軍は、ろくに備えもなく大混乱に陥り鎌倉軍は大勝しました。

蒙古襲来絵詞(元寇)

 

しかし、鵯越の逆落としは多田行綱(ただゆきつな)がやった説もあり、また平家物語では急峻な崖とされる鵯越も昭和時代には汽車も通るくらいで馬が通れない程ではないそうです。

 

それはともかく奇襲による勝利で上洛した時には無名だった義経は、戦上手の英雄として歴史の表舞台に現れる事になりました。

 

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源義経はイケメンなの?

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

源義経の顔については同時代の人物が客観的に記した史料がなく、生前の義経を描いたとする絵画もありません。

 

ただ、義経の死後まもない時代に成立したとされる平家物語では平氏の家人越中次郎兵衛盛嗣(えっちゅうじろうひょうえ・もりつぐ)が「九郎義経(くろうよしつね)は色白で背の低い男で前歯がとくに出ていて、はっきりわかると言うぞ」と伝聞の形で述べています。

 

内容に納得がいかないkawauso様

 

色白はいいとしても出っ歯ではイケメンとは程遠いですが、この伝聞は鶏合(とりあわせという平家の武士が敵である源氏を貶めて味方を鼓舞しようとする場面に出てくるので、悪い意味でかなり誇張があると思われます。

 

一方で後世の作品である義経記では、楊貴妃(ようきひ)に例えられ女性と見まごう美貌とあり美化が進んでいますが、鎌倉時代成立とされる平治物語では義経と対面した藤原秀衡が「みめうるわしき若殿なれば、姫がいる者は婿に取りましょう」と言っていて極端に不細工とは思えない描写もあります。

 

義経がイケメンとして定着したのは江戸時代の事で歌舞伎で義経の生涯が大評判を取り義経物と呼ばれてイケメンの歌舞伎役者が義経を演じるようになったからです。

 

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源義経の刀

真田丸

 

源義経の太刀は薄緑(うすみどり)と呼ばれています。この薄緑は何度も持ち主を変え、名前も変わっていて以前は、膝丸(ひざまる)蜘蛛切(くもきり)吼丸(ほえまる)とも呼ばれていました。

 

平家物語によると薄緑は平治の乱の時に源義朝が所持し、その後に義朝の父の為義が湛快(じんかい)という人に贈り、湛快の子供の21代熊野別当(べっとう)湛増(じんぞう)が上洛した義経に贈ったとされます。

 

義経は、太刀を贈られた時期が盛夏で、空が青く雲白く熊野の山々の緑も深くなり、春は薄くなったとして太刀に薄緑と名付けました。この後、義経は薄緑を箱根権現に納めたとされています。

 

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源義経の伝説

燃える本能寺

 

源義経は彗星の如く歴史に登場し、僅か5年で平家を壇ノ浦に滅ぼしますが、その大きすぎる手柄と戦場での独断専行を兄頼朝に警戒され、そこから僅かに4年で藤原泰衡に衣川の館で討たれるという悲劇的な最後を遂げます。

 

チンギス・ハン

 

このため優秀過ぎたが故に兄に疎まれた悲劇の英雄として庶民の判官贔屓(びいき)の対象となり、義経は衣川では死なず、大陸に逃げのびてチンギス=ハーンになったという伝説が生まれました。

 

もちろん、これらは伝説の域を出るものではなく、義経に生き延びてどこまでも活躍して欲しいという庶民の願いが産み出したファンタジーです。今風に言うと衣川で死んだと思ったが、モンゴルの弱小部族に転生していてチート能力で大帝国を築いていた的な異世界転生モノの主人公みたいな感じですね。

 

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源義経 年表

鎌倉時代の侍

 

源義経の簡単な年表は以下の通りです。

 

平治元年(1159年) 河内源氏の棟梁、源義朝の九男として誕生。幼名牛若丸。
平治2年(1160年) 父・義朝が平治の乱で敗死。義経は幼かったので弟達と共に助命される
嘉応元年(1169年) 10歳、鞍馬寺に預けられ稚児(ちご)となる。
承安4年(1174年) 鞍馬寺を出奔して奥州平泉へ下り、藤原秀衡の知遇を得る
治承4年(1180年) 頼朝が平家討伐を掲げて挙兵。平泉を出て黄瀬川(きせがわ)で頼朝に従う
寿永2年(1183年) 11月、頼朝代官として上洛。
元暦元年(1184年) 源義仲を討って入京。一ノ谷の戦いに勝利。
文治元年(1185年) 正月、平氏追討のため西国へ出陣。屋島の戦い。壇ノ浦の戦いに勝利し平家滅亡。
その後頼朝との関係に軋轢(あつれき)が生じ追討を受ける。
文治5年(1189年 藤原泰衡の襲撃を受け衣川館で自害。

 

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義経四天王

軍議(日本史)モブa

 

源義経には、義経四天王として、奥州平泉以来の従者、佐藤継信(さとうつぐのぶ)佐藤忠信(さとうただのぶ)兄弟、鎌田盛政(かまだもりまさ)、鎌田光政兄弟がいます。ただ佐藤兄弟と違い、鎌田盛政・光政兄弟が登場するのは源平盛衰記(げんぺいせいすいき)のみで平家物語や史料である吾妻鏡には出てきません。

 

四天王の中で、佐藤継信は壇ノ浦の戦いで義経を庇い平家の勇将平教経に射殺され、弟の忠信は義経の都落ちの後に独自の道を行き京都に潜伏して時を待ちます。しかし、人妻になったかつての恋人に手紙を出しその夫に密告され鎌倉からの捕縛使に襲撃されて奮戦の末に自害します。

 

鎌田光政は屋島の戦いで平教経(たいらののりつね)と戦い討死し、鎌田盛政は一ノ谷の戦いで戦死しました。こうしてみると義経四天王は、義経が平泉に落ちる頃までには全滅していた事になります。

 

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義経は誇り高く強引で嫌な性格だった

武田騎馬軍団 馬場信春

 

源義経は史料に残された義経自身の言動と直接関係した人々の評価を見てみるとプライドが高くて自分勝手な人であるようです。

 

例えば頼朝に大工に与える馬を引くように命じられると周囲には身分の卑しい者ばかりなので遠慮したいと断り「卑しい役だからと言って理由をつけて断ると言うのか!」と頼朝に激しく叱られ、恐れ入ってすぐに立って馬を引きました。

 

また、義経が一ノ谷の合戦後に討ち取った平家一門の首を都大路に引き渡して獄門に掛けようとすると公卿は「平家は天皇の外戚であり獄門に掛けられない」と反対します。

 

これに対して義経と範頼は、

 

「平家は父、義朝の仇であり、義仲の首は(さら)して平家は晒さないでは筋が通らない。なぜ平家に味方するのか、非常に不信感を覚える」と強硬に主張して公卿を圧倒し、結局平家一門の首は獄門に掛かりました。

 

また、義経が頼朝の挙兵に参加するのも藤原秀衡は反対でしたが義経が密かに館を出て行ってしまったので、説得を諦め渋々承諾します。

 

このように誇り高く強引な性格の義経ですが、一面で潔い部分もあり頼朝に追い詰められて都落ちする義経の軍勢が、かつての義仲のように京都で乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を働くのではないかと京中の人が恐れていると義経は何の未練も見せず静かに都を落ちていき、京都の人々に深く感謝されたそうです。

 

義経は源氏の名門エリート意識が強く、身分低き者と同席するのを避けたがり何事もゴリ押しするなど嫌な性格ですが、見苦しくジタバタして周囲に迷惑を掛ける事を嫌い、引き際を心得るなど名門らしい美点も持っていました。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は日本史の英雄、源義経を紹介しました。義経の生涯でハッキリしているのは、兄の頼朝の挙兵に参加してから、奥州平泉の衣川館で無念の最後を迎えるまでの僅か9年間に過ぎません。

 

しかし、その9年で義経は同族の源義仲を滅ぼし、壇ノ浦で平家を滅亡に追いやり、以後650年以上も続く武家政権の足場固めを完璧に仕上げてしまいました。これは当時としても快挙であり、だからこそ、その悲劇の最後と併せて義経は日本人の記憶に残る存在になったのでしょうね。

 

参考:Wikipedia

 

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元寇

 

 

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