今昔物語は今から900年ほど前の平安末期に「日本霊異記」「三宝絵」「本朝法華験記」などを元にして日本、インド、中国の説話をまとめたもので、1059もの話が収められています。
作者は分かっておらず、今昔物語というタイトルも全ての話が「今は昔」から始まるので適当につけたものです。
編集者の影響か、仏教的教訓が最期についていますが、内容は悟りとは程遠く、生々しい人間の欲望と利己主義が貫き、芥川龍之介も「美しき生々しさ」を持ち「野蛮に輝いている」と評しました。
今回は、そんな今昔物語の日本編、「世俗部」から面白い話を紹介します。
今昔物語鉄板!ポコチン話
900年間、語り伝えられた格調高い今昔物語で代表的ネタと言えばポコチンに関係するお話です。決して嘘ではない証拠に平安のポコチンネタを紹介しましょう。
・マラを取られる滝口の武士
今は昔、陽成院が天皇の時代、黄金を京都に運ぶ使者として滝口武士の道範という男とその家来8名を陸奥国に派遣した。
旅の途中、道範は信濃国の郡司の屋敷に宿泊。手厚い歓待を受けたが、夜寝付けず近所を歩いていると郡司の妻の屋敷を見つける。
郡司の妻の美しさに道範はウヒョ!したいという気持ちを抑えられず、世話になった郡司に悪いなと背徳の感情を持ちつつも屋敷に入り女とウヒョ!に及ぼうとするが、途中でマラが痒くなり、掻こうとすると股間からマラが消えている事に気が付いた。
道範はビックリして女の屋敷を飛び出て、自分の部屋で股間を確認してみたがやはり無い!情なく思った道範は、家来も呼び集めてマラが消えた事は言わず、ただ、
「あっちにイイ女がいるぞ、俺はウヒョしてきた。お前らもウヒョしてこい!」と言うと家来も助平揃いなので、女の屋敷に忍び込み、やっぱりマラが消滅し腑に落ちない元気のない顔をして戻って来るのをニヤニヤしながら見ていた。
しかし、マラが消えたのは異常な事なので、道範は全てを忘れようと郡司が朝食の用意をしているのも無視して屋敷を出ると、その後を郡司の家来が追いかけてきて、「お客様、困りますよ、こんな大事なものを忘れていかれては」と紙に包んだ9本の松茸を届けに来た。9人が松茸を見ると松茸は姿を消し、9人の股間に戻った。
話はまだ続くのですが、かなり内容が飛躍するのでここで切ります。この後、実は郡司が妖術使いで、妻に夜這いをかける男を撃退する為マラが消滅する妖術を妻に掛けていた事が明らかにされます。マラというのはポコチンの事ですが、それが消えて、その後戻って来る、バカ話とも不思議話ともつかないお話でした。
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今昔物語 介護の話
平安の昔、介護は身内のするものと決まっていました。
特に女性は結婚して夫の生前は夫に頼り、夫の死後は子供に生活の面倒を見てもらうのが一般的でしたが、不幸にしてあるいは自分の意思で結婚しなかった女性には悲惨な最後が待っている事もよくありました。
・尾張の守某、鳥辺野に人を出す話
今は昔、尾張守の某という人がいて、その身内に大変な才女がいて歌詠みとして知られ気品があったが、男を1人に定める事がなかった。尾張守はこれを哀れに思い、任国の尾張で1つの郡を預けて治めさせたので裕福に暮らしていた。
子供も2~3人いたのだが母親に似ず放蕩者で他国に飛び出していき、行方も知れない。やがて女は年老い衰えて来たので尼になったのだが、その頃には尾張守もだんだんと面倒を見なくなっていく。
女は最後には兄であった人を頼って生活していたが生活に窮してきた。それでも元々教養がある者なので見苦しいことはせず、なお気位を保ち奥ゆかしく暮らしていたがとうとう死病を得てしまう。
病は重くなり、意識も混濁してきたが、兄に当たる人は家で死なせると穢れになるとして家から出そうとした。女はそれを「自分をどうにかしてくれるのだろう」と最大限善意に解釈した。
兄は当初、清水のあたりに昔の仲間が住んでいるのを頼りに車に載せて連れていくが、その者は考えをひるがえし「ここで死なれては困る」と言ってきた。切羽詰まった兄は、貧しい人々が死人を捨てている鳥辺野に女を連れて行き、こぎれいな高麗風の縁をつけた敷物を敷いてその上に女を座らせた。
女はたいそう穏やかで優雅な人であったので墓地の盛り土の陰に隠れるようにして身繕いをして敷物の上にきちんと座り、やがて、敷物に寄り伏して横たわったのを見て、この人の使っていた女は帰っていった。
上流階級でも身内のツテを失った女性の老後の悲惨な状態が垣間見られる話です。現代の感覚から見ると、老人虐待ですが社会保障の皆無に近い平安の昔の事ですし、女性の兄も、出来る限りの事をしてやったつもりかも知れません。
一番、哀切なのは女性が最後の最後まで気品を失わず、間近に迫った死を淡々と受け入れている点でしょうか。人はいつか死ぬ、その時、どのような気構えでいられるのかを突きつけてくる深いお話でした。
今昔物語ファイト一発!
リポビタンDのCMは、若さ溢れる2人の若者がファイト一発!と叫びながら激流下りや、がけ崩れなどの窮地をパワーと根性で切り抜けていく内容で有名です。平安時代でも、若者は無謀でバカで生命力にあふれているものでした。ここでは平安時代のファイト一発!話を紹介します。
・鈴鹿の山中、見知らぬ堂で一夜を明かす話
今は昔、伊勢国から近江国へ山越えをする3人の男がいた。位は低かったが3人ともになかなか豪胆で知恵もあった。これから3人が通る鈴鹿の山中には鬼が出ると言うお堂があり、そこは人が誰も泊まらない場所だった。
時は夏、3人が山道を歩くとにわかに夕立にあったので木立の下で雨宿りをしていたが、すぐに止むだろうと思っていた雨は降り止まず、ついには日が暮れてしまった。
そこで、若者の1人が「なあなあ、例の鬼が出るお堂に泊まろうじゃないか」と提案すると残りの2人は好き好んで鬼が出るお堂に泊まるのはオカシイと反対する。
しかし、最初の若者が「本当に鬼が出るかどうか見てやろう、鬼が出たなら食われるだけよ。なーに、どうせいつかは死ぬんだ、何が怖いもんか」というので、残りの2人も辺りが暗くなってきたので渋々言う通りにした。
薄気味が悪い所なので、3人は寝ようともせずにとりとめなく話をしていると、男の1人が昼間に通った山道に男の死体があったが、それをこれから行って取ってこようと言い出した。
その時、お堂に泊まろうと提案した男が「そんな事は朝飯前だ」と言い、それに2人は「今からでは暗いし無理だ」とけしかける。男は「無理なもんか!行ってくる」と着物を脱ぎ捨てて、大雨の中を走って出て行った。
すると、お堂に残った2人の中の1人が、若者を驚かせようと着物を脱いで大雨の中に飛び出し、前の男よりもわき道を先回りして、例の死人の所に行くと、死人の着物を剥いで崖に投げ捨て(オイ!)自分が死人の着物を着て死んだふりをして横たわる。
やがて、最初の男が来て死人のフリした仲間を背負うと、仲間は男の肩をカブリと噛んだ。しかし、男は「おいおい、そんなに噛まないでくれよ!死体さんよ」と気にする様子もなく背負って走るとお堂まで戻って来た。
そこで死体を置き、「おい、お前ら、ここに死体を背負ってきたぜ」と言うと、死体になりすました仲間は物陰に隠れた。男が戻ると死体がないので「なんてこった死体が逃げちまったぜ」と叫ぶと、物陰に隠れていた仲間が出てきて、
「嘘だよーん!死体は俺が崖下に投げ捨てて、成りすましていたんでしたーだ!」とネタバラシをする。
最初の男は「なんだよ、俺をだましたのかお前ら、アッハッハ」と大笑いした。この時、残りの1人の男は天井のマス目の1マスごとに妖怪変化の顔が出るのを怪しみ、刀で突きさしていたが、やがて妖怪変化が気味の悪い笑い声を挙げて消えてしまったが、少しも驚く様子もなかった。
3人は、別段何という事もなく、翌朝にはお堂を出て近江国へ入った。
青春期特有、何の意味もないファイト一発なお話です。濡れるのが嫌でお堂に入った若者がわざわざ裸になってお堂から飛び出し、野垂れ死にした男の死体を鬼が出てくると評判のお堂に背負ってもってくるのですから、悪ふざけの極致です。
でも、いかにも生命力を燃焼させて生きている若者のエネルギーを感じる事が出来、まさに平安時代のファイト一発に相応しい話だと思います。
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なさけも厳しさもある武士の話
最後は、今昔物語が成立した頃に鎌倉に幕府を開いた強き武士の話です。貴族の世を終わらせ武士の時代を開いたサムライの精神には、現代人も見習うべき気高さが存在しています。
・藤原親孝、盗人の爲に質に捕られ、頼信の言に依りて免されし語
今は昔、河内守源頼信朝臣が上野守として赴任していた時の事、その乳兄弟に兵衛尉親孝という武士がいた。
親孝は立派な武士として頼信に仕えていたがある時、家に入った盗人を捕らえて拘留した。ところが盗人は足かせを抜いて逃げ出し、家人に追われるうちに親孝の5~6歳になる息子を捕まえ人質にとり刀を抜いて子供の腹に差し当てた。
親孝が驚いて駆け付けると、我が子が盗人に捕まり腹に刀を当てられている。いっそ走って行って子供を奪い取ろうとも思ったが盗人は刀を子の腹に突き当てて「近づいたら刺し殺す」と脅すので、我が子可愛さに親孝は勇気が出なかった。
(我が子を刺し殺されては、あんな盗人を切り刻んだところで何の意味もない)
そこで親孝は一族郎党に盗人を監視させると上役の源頼信の屋敷に飛んでいき助けを求めた。
「たった一人の息子を人質に取られてしまいました」と親孝がさめざめと泣くと頼信はそれを見て大笑いして言った。
「お前が泣くのはもっともだが、しかし、こんな事が泣くような事か?武士たるものは、いざと言う時には鬼や神とも殺し合う気概を持たねばならん。それが子供のように泣くとは見苦しい事だ。子どもの1人や2人突き殺されたとて、それがなんだ?
身を思い妻子を心配しておっては立派な働きはできんぞ」
頼信はそう言いながらも、
「それはそうとして、1つわしがみてやろう」と言うと太刀一本を下げて現場に赴いた。
盗人の前に頼信が立つと、頼信の名声を知る盗人は親孝相手の時のように息巻く事もなく伏し目になったまま、刀をいよいよ子供の腹に押し当て一歩でも近づけば刺し殺そうという様子で子供は一層、火がついたように泣いている。
頼信は盗人に質問した。「お前がその子を人質に取ったのは、自分の命を助かろうと思ったからか?それとも子供を殺したいと思ったからか?申してみよ」
盗人は「どうして、子を殺したいなどと思うでしょう。ただ、自分の命が助かりたくて、もしやと思い人質にしたのです」と蚊のなくように答えた。
そこで頼信は「それならば刀を投げ捨てろ。この頼信が言うからには投げずにはすまんぞ子供を決して殺してはならぬわしの気性はお前も聞いておろう。さあ、刀を捨てよ、捨てれば悪いようにはせぬ」
すると盗人はしばらく思い悩んだ末に「それでは仰せの通りにします」と刀を放り投げ子供を放した。
郎党が盗人の頭を捕まえて庭に引き立てると親孝は憎さから斬って捨てたい気持ちになったが頼信は
「こいつはしおらしく人質を放してやった。殊勝な心構えじゃひもじくて盗みを働き、生きたい一心で人質を取ったのだろう悪いとばかりは言えぬ。それに、わしの言う通りに子供を放した道理の分かるやつで根からの悪人ではない。すぐに逃がしてやれ」
盗人は頼信に優しい言葉をかけられ男泣きに泣きだした。
「ああ、こいつに食い物を少しやれ、また、悪事を働いたやつだから、恨みを買ってそのうち人に殺されるかもしれん。厩から強そうな馬をひきだし、粗末な鞍を乗せておけ」
そうして頼信は、家人に馬と鞍を用意させ、さらに盗人に弓袋と10日分の糒を袋に入れて腰に結わえさせ「このまま、すぐに馬に乗って去れ」と命じると盗人は一目散に煙を参じて逃げていった。
厳しさと優しさを併せ持つサムライ源頼信の逸話でした。また、頼信はただ強いだけではなく、約束は必ず守る男だと思われていたからこそ、盗人も頼信を信じて刀を捨て、子供を解放したのでしょう。
そして頼信も約束を反故にせず盗人の身の上に同情し馬に鞍までつけ弓矢と食料を少しやって逃がすという温情措置を取っています。サムライ以前に頼信は大人として尊敬できる存在と言えますね。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は900年前の平安のリアルを切り取った今昔物語を紹介しました。現代のような予定調和がなく、テンプレもなく、え?そうなるのという意外性に満ちた話が多いのが今昔物語の特徴です。
人間の狡さも賢さも世の理不尽も世間の寒さも、男女の儚い情愛も全てを余すところなく収録した今昔物語。なんだか人生がつまらないと感じる人は、一度読んでみる事をお勧めします。
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