信長の親衛隊「赤母衣衆(あかほろしゅう)」とは何?どんな人物が選抜されていたの?

15/06/2021


毛利秀頼

 

織田信長(おだのぶなが)を取り巻く「黒母衣衆(くろほろしゅう)赤母衣衆(あかほろしゅう)」というものをご存知でしょうか?

 

信長から直属の鉄砲隊を預けられ戦う佐々成政

 

ヒトコトでいえば、戦場で信長の周りに付き従い、その指揮で直接動く、総大将の直轄部隊。「旗本の中でも、さらに選抜された、選りすぐりのエリート部隊」といったところでしょう。

 

赤母衣衆に選抜される毛利秀頼

 

ちなみに、母衣(ほろ)というのは騎馬武者がつける装身具のことです。特に赤母衣となれば、赤い色の母衣をマントのようにつけて動いていたわけですから、戦場でも目立つ、華のある部隊だったのではないでしょうか?

 

今回は、この母衣衆の、とくに「赤母衣衆」のほうに着目し、どんな部隊で、どのような人材がいて、どのような活躍をしたのかを追ってみたいと思います!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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ここが大事!赤母衣衆は十人の選抜隊!

 

 

さて赤母衣衆ですが、諸説はあるものの、たとえば『信長の親衛隊』(谷口克広(たにぐちかつひろ)/中公新書)の研究によると、「十人までの選抜メンバー部隊」であったようです。

 

この「十人」と枠が決まっているところが、大事なところですよね!

 

五虎大将軍b 関羽、張飛、馬超、趙雲、黄忠

 

三国志の「五虎将軍」にせよ、信玄の「武田二十四将」にせよ、あるいはマンガやゲームでよく出てくる「〇〇四天王」にせよ、「ある枠数を決めて、優秀な人材をその中に抜擢する」という整理は、同時代の人々への喧伝だけでなく、後世への覚えという点でも実によろしく、この手の「〇〇何人衆」に自分が選ばれるということはそれだけでも誉れであったことでしょう。

 

黒母衣衆に抜擢される毛利良勝

 

特に赤母衣衆は信長の「小姓」の中から、特に優秀なメンバー十人を選抜して編成するという仕組みになっていたようです(いっぽうの黒母衣衆のほうは、信長の「馬廻(うままわり)」からの抜擢が多かったと推測されます)。

 

森蘭丸

 

かの森蘭丸(もりらんまる)に見られるように、信長の小姓たちというのはかなり濃密な結束心をもった若者たち。この中から、さらに武勇を見込まれて戦場でも信長の傍についていく十人が選抜されていたわけで、そうなると戦場での活躍もさぞかし輝かしかったのではないでしょうか。

 

赤母衣衆にはどんな人がいた?まずは有名人のほうから確認!

前田利家

 

では、その赤母衣衆には、具体的にはどんな人が加わっていたのでしょうか。まず「赤母衣衆に入っていた」という言い伝えが残っている人物で、いちばん有名になった人といえば、やはり、前田利家(まえだとしいえ)でしょう。

 

長い槍が得意な前田利家

 

前田利家は最終的には加賀の領主となり、豊臣時代を生き延びるまで大出世するわけですが、今でも金沢の尾山神社には、まさに「母衣」を背負った若き日の前田利家の像が立てられております。

 

豊臣秀吉の勢力に上手く乗り換える前田利家

 

赤い母衣を背負い、騎馬で戦場を駆け抜けた前田利家の若き日の勇壮さは、なるほど想像するだけでも、そうとうに威風堂々たるものだったことでしょう。

 

他にはどんな人がいた?もう少し地味な人の生涯を確認!

無断参戦して手柄を立てる前田利家

 

さてもう一人、前田利家のようなビッグネームにはならなかったものの、その生き方に当時の「赤母衣衆」の心意気が見えるような人物を紹介しましょう。

 

毛利秀頼

 

それは、毛利秀頼(もうりひでより)です。

 

歴史ファンが字面だけ見るとなんだかすごい武将のように見えるかもしれませんが、残念ながら毛利元就(ふもうりもとなり)の家柄とも豊臣秀頼(とよとみひでより)とも関係はなく、尾張の一侍です。

 

織田信長と本願寺顕如(石山合戦)

 

この人が面白いのは、石山本願寺合戦(いしやまほんがんじかっせん)のこと。これは信長の戦史上でも特に苦戦した長期戦となりましたが、毛利秀頼はこの戦いに参戦していました。

 

ある時、彼は仲間の兼松正吉(かねまつまさよし)と一緒に敵の名将を討ち取りましたが、「お前が討ったんだから、お前が首級を持っていけよ」

 

「いや、お前が持っていってご褒美をもらえよ」とその場で譲り合いになり、結局、せっかく討ち取った敵将の首をほったらかしにして帰ってきちゃったそうです。

 

衆道?織田信長と森蘭丸

 

おそらく信長の赤母衣衆には、このような「男気」というか「豪快」というか、戦国武者らしい明るいキャラが多く、信長もそういう人を好んで周りに集めていたというところではないでしょうか。

 

まとめ:無骨者集団に見える信長親衛隊ですが、なんと徳川の世まで安泰に生き延びたケースも!

前田利家と共に鉄砲隊を率いて武田勝頼を撃退する佐々成政

 

赤母衣衆の面々の人生も、それぞれ波乱万丈でした。

 

黒母衣衆となり頭角を表す佐々成政

 

とくに本能寺の変で信長が急死すると、それと運命を共にする者、その後の秀吉時代に適応できず不遇になっていく者、さまざまでした。ですが、今回取り上げた、前田利家と毛利秀頼に関しては、その後の秀吉時代にも重用され、立派な出世を遂げることになります。

 

また、赤母衣衆ではないのですが、先に名前の出た兼松正吉もまた、堅実に出世し、そこそこのクラスの領主となって安泰な老後を迎え、何と1627年、つまり徳川の安定期まで長生きをしました。

 

日本史ライター YASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

先に参考文献としてあげた『信長の親衛隊』(中公新書)では、著者の谷口克広さんが、毛利秀頼や兼松正吉を評して、「律儀で純朴な人間こそがコツコツと出世できるのだという実例のようで、なんだかほほえましい」という意味のことをおっしゃっていますが、私もまったく同感です。

 

殺伐とした信長時代を駆け抜けた赤母衣衆や馬廻の中にも、このように安泰な後半生を手にした人々もいたことを知ると、安土桃山時代の見方もまた少し、変わってくるのではないでしょうか?

 

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織田信長スペシャル

 

 

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通説では「ダメ人物」とされている人について、史料に則しつつも「こういう事情があったのではないか?」と「弁護」するテーマが、特に好きです。愚将や悪人とされている人物の評価を少しでも覆してみたい!がモチベーションです。日本人の「負けた者に同情しがちな心理」大切にしたいと思っています
【好きな歴史人物】
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