鎌倉殿の13人23話「狩りと獲物」では、富士の巻き狩りと曾我兄弟の仇討ちに見せかけた頼朝暗殺の陰謀が描かれました。
結局、曾我兄弟の暗殺は失敗し、名目上仇討ちで計画を進めた事を小四郎に逆手に取られ、仇討ちのみが後世に伝わる皮肉な結果を招きました。しかし、どうして日本では仇討ちが褒め称えられたのでしょうか?
この記事の目次
仇討ちの歴史は5世紀にさかのぼる
日本史に残る最古の仇討ちは5世紀にさかのぼります。第20代安康天皇は、大草香皇子の妻、中磯皇女に横恋慕し、皇子を殺して中磯皇女を奪い自分の妃としました。
この中磯皇女には、大草香皇子との間に生まれた眉輪王がいましたが、安康天皇はある時、自分が大草香皇子を殺したと眉輪王に漏らしてしまいます。
怒りに燃えた眉輪王は、天皇が熟睡している時を見計らい天皇を刺殺しました。捕らえられた眉輪王は天皇の地位を狙ったのかと尋問されますが、「そんな事は関係ない、私は父の仇に報いただけじゃ」と言い放ったそうで、これが日本史における最初の仇討ちです。
関連記事:【衝撃の事実】邪馬台国の重臣・難升米(なしめ)の子孫が大和朝廷の重臣だった?
武士の時代に習慣化する仇討ち
その後、平安末からの武士の台頭により仇討ちは習慣化されます。武士は、自分の土地を守るために一族郎党を血族として武士団を形成し、血族がよその武士団に殺されると一丸となって報復するようになります。
この風潮の中、仇討ちは親を殺された子が当然もっている権利で義務と考えられるようになり、仇を討ち果たす事が親孝行の一環となっていきました。大河ドラマで時政やりくが曾我兄弟の仇討ちに好意的だったのも、それが親孝行であり、殺人とは受け止めていないからでしょう。
しかし、仇討ちが殺人である事は間違いなく、どこまでを仇討ちと認めるかについて曖昧な部分が増えてきたので、江戸時代に入ると仇討ちは法制化していき、形式が決定されていきます。
関連記事:【サムライの祖】滝口武士は手のつけられない凶戦士ってホント?
貞永式目(御成敗式目)では仇討ちが違法になっていた?
仇討ちは武士の時代から習慣化していたと書きましたが、北条泰時が制定した貞永式目(御成敗式目)では、仇討ちが禁止になっていました。
貞永式目の10条では、
口論や酔った勢いでの喧嘩で相手を殺せば殺人罪を適用する。加害者は死刑か流罪を言いつけ財産を没収する事とする。ただ、加害者当人の父子が無関係である場合は、その者たちは無罪とし、これは傷害罪についても同じとする。
ただし、子や孫が先祖の仇を口実として殺人に及んだ場合は、加害者の父や祖父がたとえそのことを知らない場合でも同罪とする。これは結果として父祖の憤りを宥めて恨みを晴らす事で、父祖も利益を受ける事になるからである。
なお、子が地位や財産を奪う目的で人を殺した場合は父が無関係なら罪は加害者のみに及び父は無罪とする。
このように仇討ちについては、実行犯は当然の事、その父祖が仇討ちの事実を知らなくても同罪としていて、仇討ちは殺人で犯罪であるとする見解を見せています。
これは貞永式目の制定者である北条泰時が、曾我の仇討ち事件で幕府に捕らえられた曾我五郎が斬首刑に処せられた措置を踏襲していると考えられます。
関連記事:鎌倉時代の警察の役割を果たした「守護」を分かりやすく解説
意外と面倒くさい仇討ちのルール
仇討ちが法制化したという事は、公式ルールが定められ、仇討ちとそうでないものが分けられるようになったという事でした。
例えば、仇討ちは父母や祖父のような尊属殺に対するものが認められ、自分の子や妻子を含む卑属には認められません。また主君の仇討ちも血縁がないので基本認められませんでした。また、犯罪者の逮捕は本来、藩や幕府の仕事なので、公権力に親の仇が捕らえられてしまった時も仇討ちは出来ません。
ただ、この場合には幕府に申し出て、死刑執行を許してもらう太刀取の制度がありました。それから、仇討ちをする人が武士の場合は、まず主君の許可書を受ける必要があり、仇を追い駆けて他国へわたる場合も、奉行所への届出が必要です。
こうして奉行所への届け出を済ましておくと、無事に仇を討って殺人で捕縛されても、ただちに奉行所の仇討帳簿と照会され確認が取れたら無罪放免になる仕組みでした。
これらを総合すると、江戸時代の仇討ちは、
①父母や祖父母のような尊属殺人のみが基本該当
②仇が逃げてしまい、幕府や藩が捕まえる事が出来ない
③主君の許可を受け他国へ渡る際には奉行所に届け出る
④主君の仇討ちは血縁がない限り原則認められない
このような手続きをこなす必要があり、激情に駆られ執念で仇を追いかけるみたいな感じではないようです。
関連記事:赤穂浪士の討ち入りプロジェクトにかかった莫大な費用
仇討ちの成功率は数%、返り討ちにあう事も多い
法制化された仇討ちは市民権を得て弊害を生み出します。当時の藩の中には、家の主人が殺された場合、相続人が仇を討たないと家督は継がせないとする取り決めがあったそうです。
親の仇も討てないようでは武士ではないとする価値観が形成され、権利であった仇討ちが義務になり、仇討ちを強引に促すようになったのです。このため、内心では仇討ちなんかしたくなくても、家督を継ぐために仇を探して日本中を放浪した可哀想な武士もいたそうです。
また仇討ちは決闘の一種なので、討たれる側にも正当防衛が認められました。仇に逆に殺害される事は返り討ちと呼ばれています。そもそも仇討ちの成功率は数%しかなく、仇討ちにかかる時間も数年から半世紀と長く、仇討ちは狙うほうも大変な負担だったのです。
関連記事:江戸時代の犯罪はどう裁かれた? 今とは違う価値観を紹介
仇討ちは一度限り
では、仇討ちが成功したとして、仇に子供がいた場合はどうなるのでしょうか?この場合、普通に考えると仇の子供にも仇討ちの権利が発生しそうです。
しかし、この場合は再度の仇討ちは認められなかったようです。仇討ちによる殺人は殺人ではなく、恨みを晴らす権利の行使なので仇討ち殺人は合法で、そこに遺恨は発生しないとする考え方です。
また、そうしないと双方の一族が絶えるまで報復の連鎖が止まらない事になり、社会に重大な影響を与える事が予想されたからでしょう。
関連記事:忠臣蔵はテロ?知っているようで知らない赤穂事件を解説
助太刀制度や仇討ち禁止ゾーンもある
仇討ちは成人男性だけではなく、少年でも女性でも望めば許可されました。この場合、どうしても仇に対して体力面でのハンデが生じるので助太刀と言って補助人が付く事が認められていました。ただ、この助太刀もあらかじめ奉行所や藩に届け出ないと違法になりました。
また、城内や神社仏閣で仇討ちをする事も禁止されていました。仇の中には、これを利用し出家して坊主となり身の安全を図る者もいましたが、それでも寺を一歩出れば、仇討ちは解禁されるので、気の休まる暇はなかったでしょう。
関連記事:衝撃!江戸時代は1862年に終った?一会桑政権vs明治政権の戦い
仇討ちの禁止
江戸時代、仇討ちは未熟な警察権力を補助する名目で法制化されました。当時の日本は幕府以外に三百前後の藩が設置され、それぞれの藩は自治が許されていて、幕府の警察権が及ばなかったからです。
だから、仇が藩から逃げたり幕府の直轄領から逃げると、もう藩にも幕府にも直接の手出しができないので、仇討ちを容認して被害者に警察権を代行させたのです。
しかし、明治維新が起きて、廃藩置県で幕府と藩が消滅すると東京を中心とする明治新政府が成立し、日本全国隅々まで警察権力を張り巡らす事が可能になります。こうして殺人事件の被害者に警察権力を代行してもらう必要が消え、明治6年(1873年)仇討ちは禁止されました。
関連記事:西郷留守政府が明治日本に残した功績にはどんなものがあるのか?
日本史ライターkawausoの独り言
今回は曾我兄弟の仇討ちから、日本における仇討ちの変遷を解説しました。
仇討ちは個人の報復感情を満たす制度ではなく、むしろ家の名誉を保つ社会的な側面が強いものでした。そのため個人感情より世間体が重視され「仇を討たないのは恥ずかしい」とする風潮が生まれ、仇討ちの当事者を望まない報復に駆り立てる事さえありました。
立派な仇討ちの裏には、個人の意志を犠牲にし世間体を最優先する日本社会の悪しき闇が横たわっているのです。
関連記事:どうして武士は切腹するの?実は簡単に死ねない超痛い自殺の真実