文永の役で元軍が敗退した理由は湿地にあった!

17/10/2020


攻め寄せる蒙古兵(モンゴル軍)

 

文永11年(1274年)10月5日、蒙古と漢と高麗(こうらい)の連合軍は対馬(つしま)に上陸します。これが世にいう元寇(げんこう)です。

 

しかし、そんな元軍は、対馬から博多湾に移動し上陸した後に、鳥飼潟(とりかいがた)の戦いで敗北すると、そそくさと船の中に逃げてしまい、10月21日には博多湾から姿を消してしまいます。別に致命的な敗戦を経験したわけでもない元軍はどうして、退却したのでしょうか?その原因は、福岡の地形かも知れません。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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福岡は湿地帯だった

福岡地形

 

元軍が陸地にキャンプを張らず、船の中に戻った理由、それは当時の福岡周辺が湿地帯だった事が影響しているようです。大きな合戦が起きたとされる鳥飼潟ですが、潟という名前の通りそこは湿地でした。

 

実際に、鳥飼潟の戦いの先駆けだった竹崎季長(たけざきすえなが)は蒙古兵を追撃しようとしたものの、馬が干潟に足を取られて転倒し取り逃したとあります。

 

さらに蒙古襲来絵詞をよく見てみると、蒙古兵には本陣らしき場所以外には騎馬兵が1人もいない事に気づきます。蒙古と言えば精強無比の蒙古騎兵が連想されますが、鳥飼潟の戦いでは蒙古の騎馬は活躍した様子がないのです。

 

これらを考えると、蒙古襲来の当時、博多湾とその周辺は大雨か何かで水浸しであり、土地はぬかるんで、元軍は騎馬を展開できなかったと考えられます。この段階で最強蒙古騎兵は封じられた形になってしまったのです。

 

はじめての鎌倉時代

 

 

泥の中の戦いに慣れた鎌倉武士

馬にのり凱旋する将軍モブ

 

鳥飼潟の戦いで敗れた元軍は、百道原(ももちばる)へと敗走しますが、この百道原という場所も昔は干潟で、ぬかるんだ泥の大地に、東西南北からやってきた人の足跡が無数に残ったので、百道原と名付けられたそうです。

 

牛馬を使う事が出来ない元軍ですが、逆に鎌倉武士は果敢に騎馬で追撃を続けています。竹崎季長は運悪く落馬しましたが、当時の武士は泥の中でも馬を走らせる方法を熟知していたのでしょう。

 

実際、和式馬術には、泥跳ねを防止して衣類を守る、障泥(あおり)という装具が存在しています。泥跳ねを想定しているという事は雨天で泥だらけの場所での乗馬を想定しているという意味だと考えられます。

 

かたや、騎馬で戦えず徒歩で逃げ惑うしかない蒙古兵は、本来の実力を発揮できず、日本の騎兵に一日に二度も大敗し、元軍の左副都元帥(さふくとげんすい)劉復亨(りゅうふくこう)少弐景資(しょうにかげすけ)に射殺される不運にも祟られました。

 

ここまで一方的にやられれば、元軍に限らずとも、士気はがた落ちするでしょう。散々に敗れた元軍は、とても陸上に陣地を置けず、船に逃げ帰ったのです。

 

アンゴルモア合戦記の特集

 

補給ができない元軍

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

アジアのステップ地帯に成立した騎馬民族の国家である元は、雨が少ない草原で戦闘方法を磨いていたので、その基本は固い地面を活かした騎馬、輸送は牛でした。この戦い方は、大陸で地続きである中国王朝相手にも、中央アジアのオアシス国家でも、東ヨーロッパの国々でも朝鮮半島でも有効でしたが、海を渡った先の日本の高温多湿の土地ではいきなり通用しなくなります。

 

山だらけの日本でも、山から崩れた土砂が堆積した沖積平野はありますが、この土は水はけが悪く、大雨が降るとすぐにぬかるんだ泥の大地になりました。福岡には大河川がなく沖積平野はありませんが、元々土地が低い湿地帯であり、豪雨があれば、すぐに洪水が起きる水害に弱い土地でした。

鉄甲船

 

そんな土地では、元軍は馬を走らせる事も、牛に荷車を曳かせて物資輸送する事も出来ません。補給が出来ないのでは、内陸に軍を展開できませんから元軍は日没とともに、船の中に引き返すしか方法がなくなったのです。

 

ヤブ蚊に悩まされた蒙古兵

孔明のテントがある野外のシーン

 

逆さ日本史の著者、故樋口清之(ひぐちきよゆき)氏は元軍が船に引き上げた理由をヤブ蚊としています。世界中、どこにでもいそうな蚊ですが、モンゴルでは現在でも、水辺以外にはほとんどいないそうです。ましてや800年前の蒙古兵には、ヤブ蚊を見た事がない兵士の方が多かったかも…

 

そのヤブ蚊が、湿地帯の福岡には無数に存在し、寝ようとする蒙古兵に襲い掛かったとしたら、はじめて体験するヤブ蚊の羽音のうるささと、痒みに耐えられなくなり、船に戻りたいと訴えたとしても不思議はないでしょう。それに、乾いていない土地では人間は体調を崩しやすくなりますから、ヤブ蚊の脅威がなくても、そう遅くない時期に元軍は船に戻るしかなかったでしょう。

 

元を打ち破ったのは日本の国土だった

armor(鎧を身にまとう武士)

 

このように考えると、文永の役で元軍を追い払ったのは、鎌倉武士の奮戦もさる事ながら、騎馬も牛車も使用不能にした泥だらけの日本の地形であったという事が出来ると思います。

 

鎌倉時代の侍(武士)

 

鎌倉武士団は、地形のメリットを知ってか知らずか最大限に生かし、七人の侍の菊千代のように血と泥に塗れて奮戦し、元軍の自信を喪失させて、出直させる事に成功したのです。

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

福岡の中心市街地がある天神は鎌倉時代には、まだ海の底だった事が住吉神社絵馬図(すみよしじんじゃえまず)からうかがい知れます。元軍が博多湾から上陸した時、そこは一面の芦原が広がる湿地帯だったのです。生まれて初めて直面する湿地帯での戦いに、乾燥した土地に住む蒙古兵は順応できず、土着の日本武士に成す術がなかったのだとkawausoは考えます。

 

参考文献:日本史の謎は地形で解ける PHP文庫

 

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カワウソ編集長

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