一度は平氏を追い出し京都を占拠するものの、源頼朝との権力闘争に敗れ、その弟、源義経が率いる軍勢に惨敗し、わずか半年で京都を手中から逃した木曽義仲。
そういう次第で、源平合戦の流れの中では、まるで本能寺後の明智光秀のごとく、「頼朝のかっこうの餌食になったカマセ」のように見られがちな人物です。しかしそれは後世の目から見た場合のこと。源義経に追いつめられた木曽義仲には、なにか勝ち筋はなかったのでしょうか?
そして、対義経戦に耐えぬいた場合、義仲には引き続き権力を維持できるシナリオはなかったのでしょうか?
すなわち、敢えてこう説いてみましょう。木曽義仲が源義経の攻撃をしのいだ場合、鎌倉の頼朝の立場はどう変わったのか、そしてそれによる、日本史の展開はどう変わっただろうか、と。
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全体的に不利だが切り札も持っていた木曽義仲、そのキーワードは「中世の北陸」
まずは木曽義仲の勝ち筋の整理から。なるほど戦術的には、軍事の天才義経を相手に惨敗をしてしまいました。しかし実はその戦闘が始まる前の状況を考えると、そもそも義仲には、「義経と戦わずに勝つ」手があったように思えるのです。
当初の義仲は信濃国で挙兵し、そこから圧倒的な勢いで兵士の追討軍を粉砕して進軍しました。その京都侵攻ルートは、北陸を抑えての入京でした。このことは実はとても重要です。というのも、当時の京都にとって、食糧の輸入ルートは北陸道がメインだったのです。
京都の人口を支える食糧ルートを最初に握ったのが義仲であり、翻って言えば、北陸道を抑えているかぎりは、たとえ京都を奪われても義仲は中央政界にプレッシャーをかけられたはずです。
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この時点では「源氏の総大将」と決まっていなかった源頼朝
もうひとつ重要なことは、源頼朝は南関東に拠点を固めたとはいえ、京都の皇室・貴族社会から見れば、まだ「使えそうなコマのうちの、あくまでひとつ」でしかありませんでした。
特に後白河法皇としては、平氏をうまく追討してくれさえすれば誰とでも手を組みたい時期におりました。
そして源頼朝自身も、あくまで河内源氏の頭領という立場にすぎず。甲斐源氏にせよ近江源氏にせよ、日本全国に散らばる源氏系のオオモノたちも、まだ頼朝を頂点に結集すると決めたわけではありません。頼朝よりも「大樹としてもたれやすい」ネームが存在するならば、そちらへの鞍替えはいくらでも考えられました。
そんな背景の中、たしかに京都に入ってからの狼藉三昧で評価を落としていた義仲ですが、もし彼が「老獪な戦略家であれば」、いったん京都を棄てて北陸道に籠り、全国の源氏系に対して工作をしつつ、反頼朝の勢力(奥州藤原氏や、佐竹氏など、すでに頼朝と険悪な関係になり始めていた諸勢力が生まれておりました)に働きかけれ、「反頼朝同盟軍」を組むことはできたはずです。
京都の支配にこだわって撤退のタイミングを見誤ったところのある史実の義仲ですが、そもそも、義経と全面衝突せず、北陸にたてこもって防戦一方、冬になるまで堪え忍べば、挽回できる可能性はあったかもしれないのです。
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そのように義仲が義経の攻撃を巧みにかわし、北陸で冬を待ち、義経が諦めていったん撤退するまで守りに徹していたら?
その場合、すでに平氏は西日本にいるわけです。頼朝は無人の京都に入ることができるものの、その拠点はくまで関東に。そして義仲が北陸に陣取る形となります。
源平合戦は、この三つ巴の「天下三分」状態となって、何十年も抗争は続いたでしょう。そして、敵が味方に、味方が敵になる複雑な駆け引きが続きます。
「平家物語」は諸行無常を説く文学作品ではなく、『三国志演義』のような、三つ巴の勢力間での英雄どうしの駆け引きや戦略謀略が渦を巻く、大河諸国記になっていたかもしれません。
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まとめ:これをやるには「老獪な戦略家」が必要となりますが
さて、このシナリオに持ち込むためには。木曽義仲としては、北陸道にこもって時間稼ぎをするだけでなく、もうひとつやらなければいけないことがあります。頼朝・義経側に「官軍」を独占させないこと。少なくとも、後白河法皇については、義仲と頼朝の対決については常に中立の立場に置かねばなりませんでした。
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ただし、それ以前から後白河法皇にいろいろと「抱かせなくてもよい悪印象」を抱かせてしまっていたのが義仲。自分が政界のオオモノと渡り合っても悪手ばかりになってしまうならば、ここはぜひ、得意な人間にやらせるべきでした。
となると、木曽義仲が「三国志」状態にもちこみ、長らく生き延びるためには、頼朝の工作と互角に渡り合える「老獪な戦略家」の頭脳が必要だったのかもしれません。本人がどう見ても「老獪な戦略家」ではない以上、いわゆる「軍師役」の採用が最優先だったのかもしれません。もちろん、これがもっとも手に入れにくい人材であることを考えると、どうにもやはり、木曽義仲陣営は不利なのですが。
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