踊り念仏や捨聖として知られる、鎌倉時代の僧侶・一遍上人。元々は、伊予水軍の河野一族という、武家として有名な一族でした。(※当時「河野」は、カワノと呼ばれていた可能性が高い。)
それでは、どのような経緯で出家し、僧侶になったのでしょうか?今回は、若い頃の一遍ついて探っていきます。どうぞお付き合いください。
子供の頃に一度出家していた一遍・名前は智真
まず、一遍が生まれた頃(1234年)、伊予水軍の河野一族は没落している状況でした。
それは、一遍が生まれる十数年前に起きた「承久の乱(1221年)」が原因でした。
これは、鎌倉幕府と京都の朝廷が争った戦乱でしたが、一遍の祖父の河野通信(カワノミチノブ)を始め、河野一族の多くが、朝廷方に味方したのでした。
戦乱の結果、朝廷方が大敗し、河野一族の多くは敗軍側となり、通信を始め、処罰されたのです。ただ、一遍の父(通広)は、その頃、仏門に入り出家していたため、お咎めはなかったのです。(僧名は、「如仏」という名前でした。)しかも、「半僧半俗」として生活していたので、妻帯し、子供を授かることもできました。一遍は誕生したとき、武家の息子としての立場でもあったのです。幼名は、「松寿丸」と呼ばれていました。しかし、敗軍の将の河野通信の孫でもあったことは、若き一遍(松寿丸)としては、肩身の狭い思いをしたかもしれません。それが、10歳の頃、第1の転機がやってきます。
一遍の母親が亡くなったのです。それが切っ掛けで、完全に出家し、仏門を学ぶことになったのでした。13歳の頃には、九州・大宰府の浄土宗の寺院にて修行することになりました。「聖達上人」や「華台上人」など、浄土宗西山派の高僧たちに学んだと言われています。その頃は「智真(チシン)」と名乗って修行していたようです。しかし、智真(一遍)が25歳のとき、父親の通広が死去したことで、さらなる転機が訪れたのです。
父の死により、還俗する
父の死が切っ掛けで、智真(一遍)は、故郷の伊予松山に戻り、還俗したのです。それから約8年は、武家の人間として生きていたのです。ちなみに、そのときの俗名は正確に分かっていないようです。「時氏」、「通尚」あるいは「通秀」とも伝わっていて、諸説ありますが、未だに謎のままのなのです。また、還俗して武士として、どのような生活をしていたかも詳しく分かっていません。
しかし、二度目の武士としての生活を始めてから、8年経った頃に大事件が起きたのです。親類との間で、家督争いか資産相続を巡る争いが起きたというのです。さらに、そこに女性問題が絡んでいたとも言われています。結果、一遍が斬り殺されそうになるという刃傷事件が起きました。
この出来事は、『一遍上人絵伝』(一遍聖絵とも言われる)という絵巻物にも、一遍が武士たちに追いかけ回される姿が描かれています。そして、その事件が一因で一遍は再出家し、仏道を突き進んでいくことになったようです。1271年、一遍が32歳の頃でした。ここに、「一遍」が誕生したのです。
妻帯していた一遍
ただし、還俗していた8年間に、一遍には妻も子もいたと伝わっています。妻は「超一」、子は娘で「超ニ」の名前で知られています。しかも、再出家して、遊行を開始した頃(1274年)には、妻も子も連れ添っていたそうです、しかし、それだと本当の仏道修行にならないと悟った一遍は、妻子と別れて、一人で遊行の旅に出る決断をしたのです。(※1275年には、確実に、一遍は一人での遊行を開始していたようです。)
おわりに
妻子と別れ、遊行を開始した時、「捨聖」と呼ばれた「一遍上人」が覚醒した瞬間と言えるでしょうか。徹底して捨てる生き方を実践し始めたのです。
そして、ちょうどその頃、日本国内は、中国大陸のモンゴル軍国家「元」による、日本総攻撃の脅威、つまり、二度に渡る「蒙古襲来」(1274年の「文永の役」と、1281年の「弘安の役」)の危機にさらされていたのです。
一遍の遊行と捨聖の生き方は、「蒙古襲来」という、世界の終わりを感じさせる類の大戦の影響を大いに受けていたと思われます。一遍が、人々を救済するために命懸けだったと思えてならないのです。
【了】
【主要参考】
・『一遍語録を読む』(金井清光・梅谷繁樹 共著)法蔵館文庫
・『日本人のこころの言葉 一遍』(今井 雅晴 著)創元社
・『踊念仏の現象学的研究に向けて』(宮 嶋 俊 一 著)
・『一遍上人語録』(大橋俊雄 校注)岩波書店
・『吾妻鏡』
・『平家物語』
など