近畿地方の南部に位置する紀伊半島には、世界遺産にも指定されている「熊野古道」があります。これは「熊野三山」に通じる参道で、和歌山県を中心に、隣の三重県、奈良県、さらに大阪府から京都府にまたがる、全長約1000kmからなる古道です。熊野三山とは、「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」のことを指します。
そのうち、「熊野本宮大社」の創建は、紀元前33年と言われています。とても古い時代から、日本では尊崇の対象とされ、多くの人々が参拝してきました。
そして、その「熊野」は、鎌倉時代の僧侶で、踊り念仏で有名な「一遍上人」も、尊崇していたというのです。古来、日本の仏教は、「神仏習合」と言われ、仏教において悟りを開いたとされる仏(ブッダ)が神と同一視され、祀(まつ)られ、仏教寺院と神社が同じ地にあるのは珍しくありませんでした。特に、その形が出来上がったのは、平安時代の半ば以降のようです。
仏教僧侶であった一遍が熊野三山を信仰していても不思議ではありません。しかし、一遍と熊野の結びつきは、特に目立つ気がします。他の歴代僧侶たちと比べても。親密度が高い印象なのです。なぜなのでしょうか?考察してみましたので、ご一読ください。
一遍は熊野で悟りを開いた!?
まず、一遍と「熊野」の結びつきが強かったことが分かる出来事として、次のようなことが挙げられるでしょうか。一遍が熊野三山の本宮大社へ参拝したときに、「阿弥陀如来」の化身とも言われてきた熊野権現から、神託を受け、悟ったと伝わっているのです。これが「熊野成道(くまのじょうどう)」と呼ばれています。このときに、一遍上人を開祖とする「時宗」という宗派が始まったのだそうです。
その熊野成道の瞬間までも、一遍は僧侶として「遊行」と呼ばれる旅を始め、日本の各地を回りながら念仏札を配り、仏(ブッダ)の教えを広め、人々の心の救済のための活動していたのですが、心の迷いがあったようなのです。特に、それまでは、一遍の妻の「超一」と娘の「超二」も、遊行の旅に付き添っていたそうです。以後の一遍は、妻子を伊予(現在の愛媛県)の故郷に帰らせ、ただ一人となって、全国を回り、仏の教えを伝導していく遊行の旅に出たのです。
その後、行く先々で、一遍の弟子となる人々が現れ、供をすることになったと言われています。これらのことは、伝承として、数多く語り継がれていて、『一遍聖絵』という、国宝にも指定された一遍上人の足跡を描いた絵の作品にも登場するのです。
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歴代上皇たちも夢中になった熊野信仰
次に興味深い事実として、「熊野」は、多くの京都の朝廷の権力者たちに尊崇されていた史実があったということです。実は、中世(特に平安時代から鎌倉時代にかけて)の日本において、熊野ブームといってよい、社会現象が巻き起こったようなのです。一遍が熊野に惹かれたのは、それが関係しているかもしれません。
特に、皇族の上皇たちが幾人も熊野を目指したという事実、つまり「熊野御幸」があったのは、注目です。熊野御幸は、上皇や法皇の立場の皇族が熊野へ参詣したことを指しますが、平安時代前期の907年の「宇多上皇」の代に始まり、鎌倉時代後期の1281年の「亀山上皇」の代まで続きました。
実に、300年以上もの間に、幾度も、朝廷の「上皇」や「法皇」という天皇を経験した立場の皇族たちが参詣したという事実があるのです。当然ながら、当時、京都の朝廷と熊野を往復するには、時もかかった訳ですし、平均数百人規模の従者たちが従い、移動したそうなので、莫大な費用もかかったでしょう。そう何度もできるような定例行事ではなかったと考えるのが自然です。しかし、中には、かなりの回数に渡り、実行した上皇たちもいたのです。
特に「後白河上皇(法皇)【1127年〜1192年】」と「後鳥羽上皇【1180年〜1239年】」の「御幸(行幸)」の回数は飛び抜けていました。
後白河上皇(法皇)→33回
後鳥羽上皇→28回
との記録があります。(このお二方は、近年のNHK大河ドラマの『鎌倉殿の13人』【2022年放送】でも登場したので、身近に感じる読者も多いのではないでしょうか。)
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また、一遍の出自は、伊予の河野水軍という武家でありました。そして、河野水軍は、神社の神職の血筋も引くと言われておりましたから、朝廷の皇族に対する尊崇の念が強い印象です。皇家を支えるという気持ちが強かったと思われます。そういう意味で、一遍自身も、朝廷の皇族たちの行動に、見習う姿勢が強かったとも考えられるのです。
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「熊野」の正体
さて、このように上皇たちを魅了してきた熊野でしたが、この章では「熊野」が、古来どういう地であったかを簡単に解説したいと思います。まず、熊野の「熊」は、「隈」から来ていると言われています。物の「すみ」とか、奥に隠された「秘境」という意味があるようです。熊野信仰の中心地であった「熊野本宮大社」の主祭神は、「家都美御子大神(ケツミミコノオオカミ)」とされていて、「樹木の神」として尊崇されてきたようです。
また、この神は、日本神話にも登場する「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」の別名でもあると言われています。ただ、江戸時代までは、スサノオノミコトではなく、「国常立尊(クニノトコタチノミコト)」という神、つまり、天地開闢の直後に初めて現れた神が、熊野本宮大社の主祭神であったという説もあります。しかし、今のところ真偽は不明のようです。
ともかく、ここで注目なのは、熊野の神は「樹木の神」と見られていたという点です。熊野は、和歌山県に属していますが、昔は「紀州」や「紀伊の国」と呼ばれていて、現代でも周辺地域は「紀伊半島」と呼ばれています。
「紀」は「木」に通じる訳です。古来、木に恵まれた地域であったからということです。特に、「イチイガシ」の木が豊富だったと言われています。
イチイガシの木は、日本列島では、関東より西の地域の各所に自生していて、神社周辺には特に多いようです。この木は、年月をかけて大木に成長して、中には、標高30m、直径2mになるものもあるようです。さらに、樹齢数百年、中には樹齢千年になるものもあるということです。
そして、イチイガシには、秋になると「どんぐり」の実がなります。これは、古来、多くの動物たちの食料にもなっていたようです。熊や鹿、猪、リスなど、さまざまな動物が好んで食べてきたのです。さらに、古代の人間たちも、これらを炒るなど、火を通し、調理して食用にしていたと言われています。多くの生物たちを支える「命の源」がここにあったと言えるでしょうか。
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おわりに
このように、多くの生命を保つ、貴重な食料源の「イチイガシ」が豊富であった「熊野」が、神の宿る地として、当時を生きた人々に尊崇されたのも頷けます。最後に、ここで、一遍上人が熊野に強く惹かれたと思われる理由を、もう一つ御紹介します。
一遍と言えば、「遊行上人」という異名があります。「勧進」という仏教(ブッダの教え)を広めるために、諸国を行脚していたのです。それは、「修験道」の実践者であった、「山伏」や「修験者」たちが行っていたという、山岳や山中を歩き回っていた修行と重なる部分があるように見えるのです。
修験道の発祥は、奈良の「葛城山」と言われていますが、熊野地域は、そこからも比較的近く、より幽谷の印象があるためか、多くの修験者たちの修行の場になってきたようです。一箇所に留まらずに、広範囲に諸国の険しい山々を歩き回った一遍も、彼らと重ね合わせていたとも考えられるのです。
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【了】
【主要参考】
・『遊行に生きた漂泊の僧 一遍 熊野・鎌倉・京都』井上宏生 著(新人物往来社)
・『熊野学事始め ヤタガラスの道』環栄賢 著(青弓社)
・『一遍上人と熊野本宮 神と仏を結ぶ』桐村 英一郎 著(はる書房)
・『一遍語録を読む』(金井清光・梅谷繁樹 共著)法蔵館文庫
など