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諏訪頼重の生涯、北条時行最大の支援者である謎多き神官の史実の姿とは?

08/12/2024


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

諏訪頼重 逃げ上手の若君

 

 

「逃げ上手の若君」で人気爆発!神様なのに最強の弓の名手!未来を予知できる能力まで使える諏訪頼重、でも、そんな諏訪頼重は本当に実在するのか?読めば日本史が動き出す!諏訪頼重の秘密に迫ってみよう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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諏訪頼重の基本情報

鶴岡八幡宮 建物 モブ

 

諏訪頼重は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将です。諏訪大社の大祝(神職)とされていますが確かな事は不明です。鎌倉時代の諏訪氏は代々信濃守護の北条氏の御内人でした。御内人とは幕府に仕えているのではなく、北条氏に個人的に仕えているという意味です。

 

北条時行 逃げ上手の若君

 

諏訪頼重は北条一門が自殺した時、14代執権、北条高時の遺児、北条時行を鎌倉から脱出させ信濃で匿い、その後、建武政権下で信濃守護として乗り込んできた小笠原貞宗と対立。北条時行を総大将として三浦氏の支援を取り付け、1335年に中先代の乱を引き起こして、一時は鎌倉を奪い返し北条氏の政治を復活させます。しかし、巻き返しを図った建武政権により木曾家村の追討軍に大敗。諏訪頼重は一族43名と勝長寿院で自殺しました。

 

 

生誕・家系

book-saiyuki(西遊記-書類)

 

諏訪頼重がいつ産まれたかについては定かではありません。諏訪氏は諏訪大社上社の大祝を務めてきた一族で伝承では、諏訪大社の祭神である諏訪大明神に選ばれた少年が初代という神秘的な家系です。諏訪氏は代々の当主に諏訪明神が宿る現人神の体裁を取っていて、官位としては安芸守などの受領名を称しつつも諏訪明神としては正一位の神階を持っている人と神のハイブリッドであり、軍神として隣国からの信仰を集める存在でもありました。

 

神官としての立場を持つ諏訪氏ですが、同時に武士の性格を合わせ持ち、平安時代後期には、神職に就いていない庶子や親類を兵士として派兵するようになり源義家の後三年の役でも諏訪為仲が従軍するなどして源氏に仕え、治承寿永の乱では源頼朝に味方して御家人となり、信濃を領有していた比企氏が北条氏に倒されて信濃守護になると、その御内人になって密接に結び付きました。そのため後醍醐天皇が倒幕のために挙兵した時も信濃守護だった北条仲時に従う事になったのです。

 

 

諏訪氏の統治と領地

 

信濃は山がちで平地が分断されていて、小さな勢力が乱立する状況でした。そのため諏訪地域では大祝である諏訪氏が諏訪明神への信仰を中核として周辺地域の武士を束ねていたようです。北条氏としても諏訪氏を取り込む事で信濃支配が安定するのでメリットがあり、諏訪氏も北条氏の御内人になる事で権威を高めたい考えがありました。北条氏は諏訪一族を優遇し、鎌倉の警護役を免除したり鷹狩の特権を与えています。

 

源頼朝

 

諏訪頼重の歴史背景

 

こうしてみると北条得宗家の滅亡時に、14代執権、北条高時が北条時行を諏訪頼重に託した理由が見えてきます。信濃は山深く北条氏の影響が強い上に、小さな勢力が乱立しているので後醍醐天皇方も追手が出しにくく、また、諏訪大社の大祝である頼重が時行を庇ったとなれば、諏訪頼重を神として崇拝する周辺豪族が時行を害する事は無いと考えたのでしょう。そして、時行を託された頼重は、幼い時行を新たな主として盛り立て、いつか北条氏の天下を回復しようとチャンスを窺うのです。

 

はじめての鎌倉時代

 

南北朝時代の動乱

小笠原貞宗 逃げ上手の若君

 

南北朝時代に入ると信濃では、南朝方の諏訪氏や仁科氏、香坂氏、祢津氏、望月氏、海野氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏、高梨氏との間で抗争が続きました。1340年には、北条時行が遠江国から伊那谷に入って大徳王寺城に籠城しますが、小笠原貞宗がこれを破っています。

 

足利直義 逃げ上手の若君

 

1350年の観応の擾乱では南朝方についた足利直義派の諏訪直頼らも呼応して挙兵し、高師冬を討つなどの戦功を挙げます。その後、直義が守護の任免権を掌握すると、1351年には諏訪直頼が信濃守護に任命されますが、間もなく尊氏派が勢力を盛り返し、守護は小笠原氏に復しています。

 

南朝方は信濃に後醍醐天皇の皇子の宗良親王を入れて、伊那谷に拠点を築きますが、その後は武蔵野合戦、桔梗ヶ原の戦いと敗戦が続き、信濃の南朝勢力は衰退、諏訪氏や仁科氏も北朝に寝返り宗良親王も信濃を去っています。

 

 

中先代の乱と頼重の役割

反乱 モブ 戦争

 

諏訪頼重は1335年、滋野氏や仁科氏らと共に時行を擁立して中先代の乱を起こしました。さらに諏訪氏と縁続きの保科氏や関屋氏が青沼合戦で小笠原貞宗の船山守護所を襲撃、その間に諏訪氏と滋野氏らは信濃国衙を焼き討ちして、建武政権が任命した公家の国司を自害させ、そのまま勢いに乗って武蔵国へ侵攻。

 

鎌倉の足利直義を打ち破り追い払う快挙を成し遂げました。当時、時行は4歳の幼児でこのような計画を立てられるとは思えないので、後見人の諏訪頼重が綿密な計画を立てたと考えていいでしょう。結局頼重は京都から攻めてきた尊氏配下の木曾家村の軍勢に敗れて一族43人と勝長寿院で自害しますが、中先代の乱の成功の裏には頼重の尽力があったと考えられます。

 

北条義時

 

 

諏訪頼重の最期と死因

討死する坂東武士(モブ)

 

諏訪頼重の最期は尊氏配下の木曾家村の軍勢に敗れて勝長寿院に一族43名と逃げ込み、自害して果てたとされていますが、太平記によると、その際に頼重は全員の顔の皮を剥いでおり、誰が誰だか見分けがつかない状態だったそうです。諏訪頼重があえてこんな凄惨な死を選んだ背景には、顔を分からなくする事で北条時行も勝長寿院で死んだと尊氏に思わせようとしたとされています。

 

鎌倉殿の13人

 

 

自害の背景と経緯

 

諏訪一族の自害の背景には、自分たちが足利尊氏の討伐軍を引き付ける事で、総大将の時行を逃がすという目的があったと考えられます。中先代の乱は北条時行を奉じた諏訪頼重が起こした事なので、尊氏は当然、時行は諏訪一族と行動を共にしていると考えていた事でしょう。しかし、頼重はその裏をかき一族で敵を引き付ける事で時行が逃げる時間を稼いだと考えられます。

 

 

諏訪頼重の墓と供養

 

諏訪頼重は一族43人と共に自害したので、個人の墓はなく長野県茅野市宮川の諏訪大社の敷地内に一族全員の骨を祀った供養塔が建立されています。この供養塔は長い間、土の中に埋まっていましたが、昭和10年に偶然掘り起こされ以来、地元で大切に祀られているという事です。諏訪大社へのアクセスは JR 茅野駅から約 2.4 キロで徒歩でも訪問可能です。

 

三国志とりかへばや物語

 

 

アニメ「逃げ上手の若君」のキャラクター設定と史実の違い

 

史実の諏訪頼重とアニメ「逃げ上手の若君」に登場する諏訪頼重は、かなり違うと考えられます。というより史実の諏訪頼重については、人となりを示す逸話がほとんどなく、史実に準拠すると頼重のキャラクターを作るのは困難なのです。そのため、逃げ上手の若君に登場する諏訪頼重は、未来を見る事が出来る現人神として神秘性をまとっていますが、同時に胡散臭く、時行を溺愛し心配するあまり、奇行が目立つ変なキャラクターになっています。

 

 

アニメ声優の紹介

 

諏訪頼重を演じるのは中村悠一さんで、代表作には「おそ松さん」の松野カラ松「呪術廻戦」の五条悟、「ドリフターズ」の島津豊久「銀河英雄伝説」のオスカー・フォン・ロイエンタール「ジョジョの奇妙な冒険黄金の風」のブローノ・ブチャラティ等、クールなイケメンキャラクターを演じています。

 

 

 

死亡シーンの解説(ネタバレ注意)

 

 

諏訪頼重の死亡シーンは、漫画では皮が剥がれた顔を見せず、セリフだけでおぞましい光景が語られるだけに留まりました。グロ描写も多い「逃げ上手の若君」ですが、主人公に近いポジションなだけに、皮を剥いだむき出しの顔面はショッキングすぎると考えたのかも知れません。

 

逃げ上手の頼重の最期は?(ネタバレ注意)

 

諏訪頼重は足利尊氏の手勢である木曾家村の軍勢に追い込まれ、鎌倉の勝長寿蔭で自害しました。しかし勝長寿院は、12世紀に源頼朝が創建して後、何度も火災に遭い16世紀前期頃に廃寺となり現在は建物が存在しません。勝長寿院の跡地には、源義朝の墓と義朝の家来、鎌田政家の墓があります。

 

 

■諏訪頼重の家族と子孫

 

諏訪頼重の家族と子孫ですが、家族については4人の男子がいたようです。妻については不明で、父親についても複数の説があります。諏訪頼重は子の時継に大祝の職を譲りましたが、時継も中先代の乱を起こした時に息子の頼継に大祝職を譲り、その後父と共に討死しました。

 

しかし、大祝職を譲られた頼重の孫の頼継もやはり南朝方に味方して足利尊氏に反逆したため、罰として諏訪氏の惣領と大祝職は頼継の弟の信継に継承されました。ところが、信継の子の直頼はまたも南朝に味方し、一時は南朝に降った足利直義や楠木正儀と組んで京都を占領するなど活躍、信濃守護に任命された事もありますが、直義が殺害され北朝が攻勢に出ると没落。最終的には北朝に降伏し、直頼の嫡子である信有の家系が戦国時代の諏訪頼満、諏訪頼重に引き継がれます。

 

 

子供たちのその後

 

諏訪頼重には、時継、高重、高継、萬歳の4人の男子がいたようですが、時継以外の男子の消息は不明です。時継については、父とともに中先代の乱を引き起こし、一時は鎌倉を奪い返しますが、その後は巻き返されて、尊氏の手勢である木曾家村の軍勢に攻め寄せられ、勝長寿院で父と共に自害したとされています。

 

 

諏訪頼重の影響と遺産

 

鎌倉時代末期の武将である諏訪頼重は、北条時行を総大将として中先代の乱を引き起こしました。しかし当時、時行は4歳程度であり反乱を指導したとは考えにくく実際の計画は、諏訪頼重がしたと考えて不思議はありません。中先代の乱の成功で京都にいた足利尊氏は鎌倉鎮圧に向かい、そのまま鎌倉に留まり後醍醐天皇の建武政権と戦う道を選ぶので、諏訪頼重は、南北朝の騒乱と室町幕府の成立に大きな影響を与えています。そして、頼重の遺産としては、諏訪大社という信仰の中心を維持して小豪族をまとめ諏訪氏の系譜を守り、諏訪大社や多くの祭事を残すなど、諏訪地方の文化や歴史にも貢献しています。

 

 

後世への影響と評価

 

諏訪氏は、頼重が討ち死にした後も信濃国を代表する氏族として存続し、地域社会に大きな影響を与え続けました。諏訪大社との深い結びつきは、地域住民の信仰心を支え、文化的な側面でも重要な役割を果たしています。そして、頼重が主導した中先代の乱は、室町幕府成立の過程において重大な影響を与えました。

 

また、頼重の評価については、一時的に鎌倉を占領するなど、武勇とカリスマ性あふれる武将として評価されつつも鎌倉の支配が短期間で終わり、悲劇の英雄として捉えられています。一方、 諏訪地方において頼重は、地域を代表する豪族、宗教的な指導者として今もなお慕われています。

 

 

諏訪大社との関連

 

諏訪頼重は諏訪大社の大祝という神職で信濃一帯の宗教的な支配者でした。また、頼重は中先代の乱で破れ、一族43人と共に自害したので、長野県茅野市宮川の諏訪大社の敷地内に一族全員の骨を祀った供養塔が建立されています。現在でも諏訪頼重は諏訪大社にとって重要な人物であり郷土の英雄なのです。

 

 

現代に残る遺産と史跡

 

諏訪頼重に関連する遺産と史跡としては、長野県茅野市宮川の諏訪大社の敷地内に一族全員の骨を祀った供養塔が建立されています。この供養塔は長い間土の中に埋まっていましたが、昭和10年に偶然掘り起こされて、破損部分の修復がおこなわれ大切に祀られています。諏訪大社へのアクセスは JR 茅野駅から約 2.4 キロで徒歩での参拝も可能です。

 

 

南北朝時代の諏訪頼重の死因は?

 

諏訪頼重の最期は尊氏配下の木曾家村の軍勢に敗れて勝長寿院に一族43名と逃げ込み、全員が自殺したとされます。太平記では頼重は一族全員の顔の皮を剥いでいて、木曾家村の軍勢が入り込んだ時には、全ての死体の顔は血まみれで破損し、顔が判別できない状態だったそうです。

 

 

逃げ上手の若君の諏訪頼重の声は誰?

 

諏訪頼重役を担当するのは中村悠一さんです。仲村さんは「ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風」のブローノ・ブチャラティ「おそ松さん」の松野カラ松「ドリフターズ」の島津豊久、「呪術廻戦」の五条悟「銀河英雄伝説」のオスカー・フォン・ロイエンタールなど、クールで魅力的なイケメンキャラクターを数多く演じています。

 

 

諏訪頼重はどこで自害しましたか?

 

諏訪頼重は、鎌倉の勝長寿院で自害しました。勝長寿院は、源頼朝が父義朝の霊を慰めるために創建し、永福寺、鶴岡八幡宮寺と並び鎌倉三大寺院として知られています。勝長寿院は、16世紀前期頃に度々の火災で廃寺となり現在は建物が存在しません。跡地にはお墓が2つ残っていて、左が源義朝、右が義朝家臣の鎌田政家のものと伝えられています。

 

 

諏訪頼重は何をした人ですか?

 

諏訪頼重は信濃の諏訪大社の大祝職で、鎌倉幕府の滅亡で信濃に逃れてきた北条時行を匿い、1335年に時行を総大将に中先代の乱を引き起こし、一時的に後醍醐天皇の軍勢から鎌倉を奪い返し、北条氏の天下を復活させました。

 

諏訪頼重は二人いる?

 

歴史上「諏訪頼重」は2人います。 1人目は「逃げ上手の若君」に登場する14世紀前半の鎌倉時代末に活躍した諏訪「照雲」頼重。 もう1人は16世紀前半に信濃の戦国武将として活躍し武田信玄に敗北した諏訪左近大輔頼重です。左近大輔頼重の娘は信玄の側室となり武田勝頼を産んでいます。

 

 

諏訪家の現人神は誰ですか?

 

諏訪家の現人神とは、諏訪明神を自身に宿らせて神と同化する諏訪社の頂点に位置する神職大祝です。諏訪の現人神は古代から近世末に至るまで世襲で続き「諏方氏」を名乗っています。

 

 

中村悠一の実家はどこですか?

 

諏訪頼重の声を当てている仲村悠一さんの実家があるのは、香川県木田郡庵治町(現:高松市庵治町)です。2004年公開された映画「世界の中心で、愛をさけぶ」のロケ地になりました。

 

 

鎌倉ライターkawauso編集長の独り言

kawauso編集長

 

今回は「逃げ上手の若君」で時行の父親代わりとなって、その成長を見守る諏訪頼重について、執筆してみました。頼重は現人神と信濃の武将という2つの側面を持ち、宗教指導者としても武士としても優れた才能を発揮した人物と言えますね。

 

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