室町幕府の滅亡で終わったと思われがちな足利将軍家。しかし、彼らの物語には続きがありました。戦乱の世をしぶとく生き抜き、明治時代には「華族」へと転生を遂げた一族の真実とは?
この記事の目次
将軍・足利義昭の追放とその後
1573年、織田信長によって最後の将軍・足利義昭が京都から追放され、室町幕府は事実上の終わりを迎えました。しかし、義昭はその後も諦めず、毛利家を頼って信長に抵抗を続けました。信長亡き後は豊臣秀吉に接近し、秀吉の話し相手である「御伽衆(おとぎしゅう)」として、将軍としての格式を維持されながら晩年を過ごしました。
- 足利義昭は京都追放後も、毛利家を頼って信長包囲網を作るなど抵抗を続けました。
- 信長の死後は豊臣秀吉の庇護を受け、将軍としての地位と格式を保ちました。
- 義昭自身は59歳で亡くなり、息子たちは仏門に入ったため、将軍直系の子孫は断絶しました。
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江戸時代を生き抜き「華族」へ転生した分家
直系は途絶えましたが、足利氏の物語は終わりません。関東の足利氏の分家である「古河公方家(こがくぼうけ)」の血を引く一族が、江戸時代に「喜連川藩(きつれがわはん)」として徳川幕府から存続を許されたのです。彼らはわずか5000石の小藩でありながら、足利将軍家の血を引く名門として10万石クラスの大名と同等の扱いを受け、多くの特権を与えられて繁栄しました。
- 足利氏の分家が「喜連川藩」として江戸時代も存続しました。
- わずか5000石ながら、将軍家の血筋として10万石並みの高待遇を受けました。
- 明治維新後には家名を「喜連川」から「足利」に戻し、華族(子爵)に列せられました。
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【まとめ】しぶとく生き残った名門の意地
一度は滅んだように見えた足利家ですが、実は巧みに処世術を駆使し、時代に合わせて形を変えながら生き延びていました。将軍の地位を失っても消えることなく、最後は華族として復活を果たした、まさに伝説の「転生」一族だったのです。
Q&A:よくある質問
Q. 最後の将軍・足利義昭はどうなったのですか?
A. 京都を追放された後も各地を転々として信長に対抗しましたが、最終的には豊臣秀吉の話し相手(御伽衆)として余生を過ごし、59歳で亡くなりました。
Q. 江戸時代に足利家はどうなっていたのですか?
A. 将軍家の直系は断絶しましたが、分家が「喜連川氏(きつれがわし)」として下野国(現在の栃木県)で小さな藩を治めていました。名門として徳川将軍家からも特別扱いを受けていました。
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