戦国時代

足利義昭は還俗せず奈良のお坊さんのままでいたほうが最強だった件

足利義昭

 

室町幕府最後の将軍、足利義昭(あしかが よしあき
)

 

逃げ回る足利義昭

 

織田信長(おだ のぶなが
)
の操り人形としてさんざん利用された上に、最後には京都から追放されたという経歴のため、小説やドラマでは、しばしば「無能なダメ将軍」というイメージで扱われてしまっています。

 

武田信玄が攻めてきてビビる織田信長

 

ところが近年、このイメージも随分と変わってきています。思えば足利義昭は、信長の傀儡として不自由な生活を送っていたはずですが、ただの「カゴの鳥」に終わることなく、手紙外交で各地の大名を煽動し、ついには仇敵のはずの三好衆まで動かして、全国規模の「反信長包囲網」を完成させました。

 

この成果はたいしたもの!

実は足利義昭は相当に才能のある外交上手だったのではないでしょうか?

 

そんな足利義昭が「ダメ将軍」イメージになってしまったのは、単に相手の信長が強すぎた、というだけなのでは?

こんなふうに考えると、ひとつの「イフ」シナリオを思い描いてしまいます。

 

足利義昭がそんなに才能のある煽動上手だったのならば、もしかしたら彼は信長のもとに出奔などせず、奈良で僧侶の身分のまま、天下に号令をしていたほうが強かったのではないか、という仮説です。

 

誤解を与えている義昭の前歴:奈良のお寺にいたのは事実ですがただの「お寺」ではありません!

足利義輝

 

小説やドラマでの足利義昭の登場は、こんな感じです。十三代将軍の足利義輝(あしかが よしてる
)
が京都で殺されたとき、

「奈良のお寺に預けられ僧侶になっていた」弟の義昭が、

「このままでは自分も危ない」と寺から脱出し、最初は朝倉義景を頼り、次は明智光秀(あけち みつひで
)
の斡旋で、織田信長に保護された。

 

この展開は史実通りなのですが、こうした描写は誤解を与えているようです。どこか誤解を与えやすい描写かというと、「お寺に預けられていた」というところ。

 

善意すぎる足利義昭

 

あたかも、後継者争いから漏れた人物が、人畜無害な僧侶として生きることを決め、田舎のお寺で平穏に暮らしていた、というような見え方をしてしまいます。ところが義昭が暮らしていた「お寺」というのは、ただのお寺ではないのです。

 

「預けられていた」どころか、義昭は奈良興福寺の一乗院の門跡という、仏教界で権威のあるポストに収まっていたのです。ハッキリいえば、将軍の跡取りを諦めた代わりに、由緒ある奈良の名寺院のトップの座をあてがわれ、僧侶としての大出世コースを着々と歩んでいたわけです。

 

中国大返し ver2(豊臣秀吉)

 

そしてこの時代は、秀吉の刀狩りよりも前の時代。奈良の大寺院というのは独自に武装をしており、やろうとすれば数千人の僧兵を動員することも可能な、立派な独立勢力でした。

 

麒麟にまたがる織田信長

 

史実としては、足利義昭は寺院勢力を後ろ盾にすることは選ばず、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長と手を組むことを選んだわけですが、ここで空想してしまうことは、もし足利義昭が僧侶界でのポストを利用して世に訴え、室町幕府返り咲きを謀る、という戦略に出ていたら、どうなっていたでしょうか?

 

イフシナリオを考えてみる:足利義昭が奈良にとどまっていたらこういう展開になっていた?

 

おそらくこの場合、以下のように戦略が進んだことでしょう。

 

・まず、奈良の寺社勢力に挙兵を呼び掛ける

・大義名分は、「自分の兄を殺し、大仏殿に火を放った、憎き松永久秀と三好衆を倒すために挙兵しよう!」

・松永久秀や三好衆は近畿の僧侶たちにとって脅威であったから、「仏敵を討て!」という煽動にかなりの数の僧兵たちが集まってくる

・集まった僧兵を煽動してまずは同じ奈良にいる松永久秀の居城を強襲させる

・追いつめられた久秀は茶具を抱いて自爆(!)

・次に義昭お得意の「手紙外交」で、武田信玄や上杉謙信、朝倉義景や浅井長政を引き入れ、「反三好衆包囲網」を形成する

・大名達の力を借りて京都に入り、三好衆を討ち取る

・そこで初めて還俗し、征夷大将軍の任官を受ける

 

このシナリオのポイントは、敵を三好衆や松永久秀という、「信長ほどの天才ではない連中」に絞っていることです。

 

三好三人衆

 

三好衆や松永久秀(まつなが ひさひで
)
相手なら、足利義昭の外交の才能も十全に機能し、次々に成功する扇動や同盟締結を基盤に、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん
)
への復権プランが成立したのではないでしょうか。

 

まとめ:イフシナリオが成功しても末路はより悲惨かもしれない足利義昭

織田信長

 

ただし、この「イフ」シナリオには、史実と比較して決定的な問題があります。史実では、足利義昭は織田信長にさんざん利用され追放されることになりますが、実は京都から追放された後、義昭はかなり長生きし、天寿を全うしているのです。

 

経済政策が得意な織田信長

 

これは、織田信長が徹底した合理主義者だったので、あれほど自分を苦しめた足利義昭であっても、「殺すよりは、無害な状態にして追い払っておくだけでよい」という計算があったものと推測できます。

 

朝倉義景

 

いっぽう、先の「イフ」シナリオのパターンで、信長ではなく、朝倉義景(あさくら よしかげ
)
武田信玄(たけだ しんげん
)
や寺社勢力らに守られながら京都に入った場合、征夷大将軍復権までは成功したとしても、その後の足利義昭はどうなっていたでしょうか?

 

たちまち京都ではまた権力争いが起こり、その展開によって、兄の義輝のように暗殺されていたかもしれません。織田信長にはかなわなかったものの、相手が信長という合理的な人物だったおかげで、命だけは保障してもらえた、史実の足利義昭と、織田信長に頼らず京都に入り、一時的には「飾り物ではない将軍」の座に見事に収まるものの、そのあとは殺されていたかもしれない「イフ」シナリオの足利義昭。

 

戦国時代ライター YASHIROの独り言

戦国史ライター YASHIRO-ver3

 

こうして整理すると、史実の足利義昭の人生、あれだけ織田信長を苦しめた人物として歴史に名を残しつつ、天寿もまっとうできたわけですから、意外にもバッドシナリオではなかったのかもしれません。ヘタに彼ががんばってしまっていたほうが、本人も、日本史も、より悲惨な運命になっていたかもしれません。

 

関連記事:足利義昭(あしかがよしあき)と織田信長の微妙な関係性はどうやって幕を閉じたの?

関連記事:足利義昭とはどんな人?本能寺の変の黒幕?

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