歴史は、日々新しい発見で進歩していきます。過去の事は、記録が残りにくいので推測する部分が多いのですが、その後、新しい史料が出てくる事で推測が誤りである事が明らかになり史実が書き換えられるのです。
今回は、戦国大名は農繁期に戦をしないのは嘘だったという説を紹介しましょう。
戦国大名は農繁期に合戦をしないは嘘 ズバリ!
では、せっかちで2000文字も読んでいられない人の為に、ここでズバリと戦国大名は農繁期に合戦をしないは嘘の内容をまとめてみましょう。
1 | 戦国時代の合戦グラフを見ると農繁期も戦が起きている |
2 | つまり戦国大名は農繁期でも戦を回避していない |
3 | 北条氏では諸足軽衆という非武士身分の傭兵が存在した |
4 | 傭兵の正体は「所々の牢籠人」と呼ばれた浮浪者や悪党 |
5 | 土地を持たない牢籠人は略奪のしどきである農繁期を狙った |
6 | 戦国大名は牢籠人を活用し兵農分離を成し遂げた |
以上で、戦国時代は農繁期に戦をしないは嘘は説明がつくと思います。以後は、より詳しく農繁期の合戦について見ていきましょう。
グラフで分る農繁期の合戦
このグラフは、最新研究が教えてくれるあなたの知らない戦国史という本の53ページのデータを参考に、折れ線グラフを作成したものです。戦国時代は、4月後半から10月後半までが農繁期でしたが、6月の田植え期には、やや合戦数が低下するものの、9月の稲刈り時期になるとむしろ合戦数が増えています。
従来の通説では、兵農分離が為されていない戦国大名の間では、農繁期には貴重な労働力である農民を徴用出来ないので、農繁期の戦は回避されたというのが定説でした。
そんな中で織田信長が農民からいちはやく兵士を分離し銭で雇用するようになり、一年中合戦が可能になって勢力拡大を果たしたと説明されていたのです。
しかし、事実は御覧の通りで、織田信長以外の戦国大名も農繁期に合戦を起こしています。一体、これをどのように考えればいいのでしょうか?
農繁期に合戦を担ったのは別の集団
戦国史研究者の西股総生氏は、著書「戦国の軍隊」の中で、従来信じられてきた
「戦国大名は農繁期を避けて合戦をしていた」という説を否定しています。
その根拠として、西股氏は後北条氏の史料、
「小田原衆所領役帳(1559年作成)」を検討し興味深い推論を加えました。
ここには江戸衆、河越衆、津久井衆といった地域単位の家臣団に混ざり、諸足軽衆という集団が登場し、大藤式部丞というという責任者が統治して土着の領主とは別に編制されていたと指摘しています。
足軽と言えば、農村から徴発された兵を主体とした軽装兵のイメージですが、役帳を見る限りは、そのような土地に仲立ちした封建的原理に基づかない戦闘集団であるらしい事が読み取れるそうです。
小田原衆所領役張(1559年)一部 |
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編制 | 編制人数 | 城主及び責任者 |
小田原衆 | 33人 | 松田憲秀 |
御馬廻衆 | 94人 | 山角康定 |
玉縄衆 | 18人 | 北条綱成 |
江戸衆 | 77人 | 遠山景綱・太田大膳亮・富永康景 |
河越衆 | 22人 | 大道寺周勝 |
諸足軽衆 | 17人 | 大藤式部丞 |
職人衆 | 26人 | 須藤盛永 |
他国衆 | 28人 | 小山田信有 |
祇園会の騒動に招かれた牢籠人
小田原衆所領役帳に出現した、土地に縛られない諸足軽衆とはどんな人々だったのか?
そのヒントになりそうな記述が、応仁の乱後に京都で復活した祇園会にあります。応仁の乱が1477年に終結すると、京都では祇園会が復活しました。しかし、乱後の祇園会は従来の疫病退散以外にも別の意味合いを持つようになります。それは、山鉾を引く町衆行列がことごとく重武装するようになった事です。
祇園会は、戦乱が絶えなくなった京都で、武装を点検して行進をする軍事パレードの性質を帯びるようになりました。そして、性質が違う上京と下京の住民が祇園会で衝突して合戦に及んだ際、人手が足りないサイドが京都に存在したあぶれ者や悪党を「所々の牢籠人」として傭兵雇用した事実が出てきます。
このような牢籠人は一定の縄張りを持ち、洛外ばかりか、堺、大和の自治都市にもいて、お金で雇われ、道中のボディーガードや木戸番、そして合戦の助っ人をして生計を立てていたようです。
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