戦国時代の大名と言うと、武田信玄や上杉謙信、或いは斎藤道三のように出家した人が多いようなイメージがあります。
一般には明日をも知れぬ戦国の世で、戦国大名達も宗教に魂の救いを求めたと説明されがちですが、果たして本当にそれだけの理由で多くの戦国大名が出家したのでしょうか?
今回は戦国大名と仏教について考えてみたいと思います。
戦国大名と新仏教
鎌倉時代以前の仏教と武士ではあまり相性がよくありませんでした。古い平安仏教は多くの荘園を持ち、特権階級と結びついて堕落し民衆の救済など考えなくなったからです。
その頃の武士は、そんな寺院の荘園を武力で横領する存在でした。しかし、鎌倉時代に入ると堕落した旧仏教に対し積極的に民衆の中に分け入り、救済を説く新しい仏教が興隆してきます。
戦国時代になると、禅宗、時宗、真言宗、天台宗、浄土真宗、法華衆などが勢力を築き、時代を動かす原動力となった戦国大名へ接近していきました。
仏教宗派と戦国大名の相性
では、ここで、前述した仏教宗派と戦国大名との相性を図で見てみましょう。
宗派 | 大名との相性 | 概要 |
伝統仏教 | × | 寺院の領土を横領するなど敵対関係 |
禅宗 | 〇 | 罪業消滅などを願い信仰。
教育機関や学僧を軍師として利用 |
時宗 | 〇 | 陣僧として戦死者の供養や
治療に当たらせたり、外交に活用 |
真言宗 | △ | 政治に介入してくるので多くの大名と敵対。
一部庇護する大名も |
天台宗 | △ | 政治に介入してくるので多くの大名と敵対。
一部庇護する大名も |
浄土真宗 | △ | 各地で一揆し他宗派や戦国大名と衝突。 一揆を利用しようとする大名と殲滅しようとする大名でアクションが二分される。 |
法華宗 | △ | 一向一揆とは別に法華一揆を起こし
戦国大名や天台宗のような仏教と衝突。 大名もいる。 |
このように、禅宗と時宗は戦国大名に、魂の救済と人材と学問の場を提供して仲が良く、真言宗と天台宗は、政治に介入するので半々、浄土真宗と法華宗は一揆を起こし戦国大名と戦うなど、関係は全般的に良好とは言えないようです。
禅宗が武士にバカ受けした理由
これらの仏教宗派の中で、もっとも戦国大名が好んだのが禅宗でした。その理由は念仏を唱えれば救われると説いたり、阿弥陀如来の力に縋れば極楽往生というような法華宗や浄土真宗の教えが、体育会系が多い戦国大名には生ぬるく感じたからです。
禅宗は上の者には絶対服従という上下関係が厳しい場所であり、秩序と規律を重んじ、厳しい修行の中で自ら悟りの道を開くというストイックな宗教であり、このような厳しさが戦国大名にウケました。
また、禅宗は座禅を重視しますが、座禅を組むのは大自然の中がベストとされています。しかし大名はそうそう、山の中に籠ってもいられないので自宅の庭園を大自然に見立てて整備する事が流行しました。
これが枯山水や水墨画山水であり、日本庭園としてその後も発展していきます。もうひとつ、お茶も禅宗が日本に持ち込んだものであり戦国時代に茶の湯が隆盛をみるのは、ある意味では必然だったのです。
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戦国大名のお守り
戦国時代は、有力大名同士の熾烈な生存競争ですから、楽に勝てるカモは序盤で滅亡。あとは、優れた者同士で合戦や謀略にしのぎを削る事になります。
実力者同士の激突では勝ったり負けたりが常になるので、自分の実力を越えた部分を神仏を信仰する事で補おうという風潮が生まれ、戦国大名は仏教に加護を求めたのです。
そこで戦国大名たちは、名号(仏の名)・法号(仏門に入った者の名・法名)を記したお守りや本尊を持って合戦に向かいました。
戦国武将達に特に人気があったのは、摩利支天です。摩利支天は陽炎を神格化した神で、実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かないという無敵の特性を持ち戦国武将たちの人気を集めていました。
徳川家康は兜の中に小さな摩利支天の像を入れて合戦に臨んでいましたし、前田利家、毛利元就、山本勘助のような錚々たる戦国武将や大名も摩利支天を信仰しています。
強者同士がしのぎを削る弱肉強食の時代だからこそ、戦国大名は自らを守る超自然的な力を信仰し縋りたかったのでしょうね。
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どうして戦国大名は出家するのか?
武田信玄と言い、上杉謙信と言い戦国大名には出家する人が多いようですが、これはどんな理由からなんでしょうか?
それは第一には出家しないと救われないという事があるからのようです。
例えば、禅宗の一派、曹洞宗の道元禅師は在家で戒律を守るより出家して戒律を破る方がマシと言っているそうで、出家しないと救われないとさえ言っています。
それ以外にも実利的な理由で戦国大名は出家しました。
例えば、出家する事で世俗の権力ばかりではなく宗教の力も動員して領国をまとめる。あるいは、上杉謙信のように敢えて出家して家督を投げうち、家臣たちを動揺させ自分の力を見せつけて家中をまとめるのに利用したケースもありました。
また、出家は俗世との縁の切断を意味したので、合戦に敗れたり主君に対して失態を犯した時でも、頭を丸めて高野山に入ると言えば助命されるケースもありました。こうして隠忍自重し世間の風向きが変われば還俗して再起するという事もあったのです。
武田信玄は、永禄2年(1559年)に出家していますが、その理由に当時、武田領内に深刻な飢饉があり、出家して代替わりを演出する事で領民の不満を和らげようとした可能性があります。
つまり信玄の政治が悪いから飢饉が起きるという領民の不満を逸らす為に、頭を丸めて出家し、これで代替わりして飢饉はなくなりますとアピールしたわけですね。
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戦国時代ライターkawausoの独り言
このように戦国大名が信仰した事により、戦国時代仏教は大きく勢力を拡大しました。ただし、例え出家したからと言って戦国大名達が急に仏のように優しくなるような事はなく、肉も食えば酒も飲み、ウヒョも続けるというように、出家前と変わらない生活である事が普通でした。
実際問題、戦国のような世界で仏心を出せば、付け入られて殺害され、本当に仏様になってしまいかねませんからね。結局は、戦乱が治まるまで戦国大名が本当の心の安らぎを得る事は難しかったのです。
参考文献:図解戦国武将 池上良太著 新紀元社
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