戦国時代

安土城下町はデンジャラスな魔都だった?

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

まちづくり三原則によると、良い町とは、住みたいまち、働けるまち、訪れたいまちの3つの要素が必要だそうです。そして、この三原則は現代ばかりではなく、戦国時代の本格的城下町である安土城でも活かされていました。

 

というより安土城下町は三原則を超え、さらにデンジャラスな魅力に溢れた魔都だったのです。

 

信長が定めた安土の掟13カ条

天下布武を唱える織田信長

 

行政官であると同時に軍事力を保有していた信長は、自らが築いた安土城下町に多くの特典をつけた掟を定めました。

 

安土山下町中掟書(あづちさんげちょうちゅうおきてがき)」と呼ばれた掟の内容は13条ありますが、それはビックリするような項目が含まれています。

まずは、掟書13条を見てみましょう。

 

1 安土を楽市楽座(らくいちらくざ)とする
2 往来する商人は必ず安土に立ち寄る事
3 諸役を免除する
4 伝馬(てんま)を免除する
5 火事に気をつける事
6 罪人に家を貸していたり、同居していても罪にならない
7 盗んだものを知らないで購入した場合はその責任を問われない
8 国で徳政令が出ても安土では適用されない
9 よそからの住民にも従来の住人と同様の恩恵を与える
10 喧嘩、口論、国質(くにじち)、押売、押買、宿の押し借りをしてはならない
11 町内を探索する場合、町の世話人に届出が必要である
12 町内に在住する者は、奉公人、職人であっても
家並(住民税。固定資産税)を免除する
ただし、家中のもの、お抱えの使用人は別である。
13 国中の馬の売買は安土でおこなうこと

 

以上が、安土城下町に住むうえで保障される権利や義務です。

 

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ブラックマネーを取り込んだ安土城下町

石垣を登る忍者

 

税金の免除や、庶民には高負担で評判が悪い伝馬の免除など穏当な掟が並んでいる中で、突如として六条は罪人に家を貸しても同居しても罪にならないというザワつく内容が登場します。

 

さらに七条は盗品でも盗品と知らないで購入した場合には免責とアンダーグラウンドの商人に配慮した内容です。11条については、盗人を捕まえようと家探しするのにも、世話役への届出が必要ですから、迅速に盗人を逮捕できない掟になっています。

 

敵将の頭蓋骨を盃がわりにして酒を飲む織田信長

 

はい、掟書を見ても分かる通り、信長(のぶなが)は表のマネーばかりではなく、アングラの、いかにも犯罪に関係していそうなマネーの流入も認めており、何なら信長が犯罪者を保護しているとも取れるトンデモナイ内容でした。

 

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アングラを庇護した信長の意図

商人としてセンスを磨いていた若き渋沢栄一

 

信長がアンダーグラウンドの商人を庇護したのはアングラマネーを確保する目的もありますが、それ以外にも大きな目的がありました。戦国時代には店舗を構えている商店は京都や大坂のような大都市を除くと少なく、連雀商人(れんじゃくしょうにん)という行商人が日本各地を巡って商品を売り歩く露天商が主流です。

 

この連雀商人、旅のリスクを軽減するために大勢で移動する事が常でキャラバンを組んでいました。

 

馬に粘土を載せて運ぶ人(幕末時代)

 

室町時代の臨済宗の僧侶で、足利義政の側近だった横川景三(おうせんけいさん)の書いた「小補東遊集(しょうほとうゆうしゅう)」と言う文献には、京都付近での連雀商人の様子として「運搬人100人以上、護衛60人以上、無数の馬」と記されています。

 

はい、ここで「安土山下町中掟書」を見ると13条に国中の馬の売買は安土で行えとされていて、信長が大量の馬を使う連雀商人を意図していた事が窺えます。こうした連雀商人は、身元の不安定な人や罪人もいたのですが日本全国を渡り歩き、表から裏まで、権力者が拾えない情報をもたらす存在でもありました。

 

羽柴秀吉(足軽時代)

 

信長は、この連雀商人を庇護する為に、安土城の掟を犯罪者にも優しいモノにしたのだと考えられます。一説では豊臣秀吉(とよとみひでよし)も、元は連雀商人であったとも言われ、信長は秀吉の提案を入れ城下町の掟を作成したのかも知れませんね。

 

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元祖、尋ねたくなるまち 安土

安土城 織田信長が作らせた城

 

さて、まちづくり三原則には、訪れたいまちという要素もありました。実は織田信長、この「訪れたいまち」としても安土で様々な手を打っています。

 

特に有名なのが天正(てんしょう)9年(1581年)1月15日に開催された左義長(さぎちょう)でしょう。これは疫病退散の行事で、正月15日に盛大に爆竹を鳴らして厄を祓います。地方には、どんと焼きとして伝わったりしています。

 

織田信長は、この左義長で仮葬パレードを企画。黒い南蛮帽をかぶり、眉を書いて、赤い頬当てをつけて、袖なしの陣羽織を着て駿馬(しゅんめ)に跨り颯爽と登場しました。

 

武田騎馬軍団 馬場信春

 

信長に続いて配下の武将も色とりどりの衣装を身につけて、10騎、20騎と編制を組んで出てきて、爆竹を鳴らしながら馬場を駆けていったそうで、見物人は数万人、宣教師ルイス=フロイスは左義長の費用に信長は6万クルサド(400貫)以上を投資したと書いています。

宋銭 お金と紙幣

 

これは、現在価格では4800万円という巨額になるそうで、もちろん、左義長を見物に来た数万人の落としたお金で、費用は回収できたのでしょう。

 

燃える本能寺

 

その証拠に信長は翌年も左義長を開催しており、本能寺(ほんのうじ)で信長が倒れなければ、恒例行事として毎年開催され、ド迫力の左義長を見物しに、多くの人が安土を訪れ城下町に巨額のお金が落ちたと考えられます。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

織田信長が安土城を築いた近江は、一カ国で78万石の石高を誇り、琵琶湖の水運を擁していて、日本の東西を結ぶ大動脈として?栄していました。

 

織田信長は最高の立地条件の場所に安土城を築き、城下町を整備し、アングラ商人まで呼び込む自由過ぎる掟を制定し、自ら客寄せパンダになる左義長を開催してまで、人口を集めようとしました。これで安土が繁栄しないわけはないのです。

 

信長の死後、安土城は炎上し、城下町も消滅しますが、その斬新な手法は、秀吉、そして家康(いえやす)へと部分、部分で引き継がれ、さらに全国の大名へと継承されていきました。

 

参考文献:お金の流れで見る戦国時代  kadokawa

 

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