麒麟がくるにおいて、春風亭小朝が扮しその怪演から人気爆発の覚恕法親王。天台座主として、比叡山延暦寺の全てを掌握する織田信長や明智光秀の敵ですが、そもそも、お坊さんの集まりの延暦寺はどうして、こんなに強いのでしょうか?
今回は、知っているようで知らない延暦寺について徹底解析します。
延暦寺は最澄が開いた仏教大学
延暦寺は、滋賀県大津市にある仏教寺院です。標高848メートルの比叡山全体が境内。天台宗の総本山で、この寺院を作ったのは、日本に天台宗を持ち込んだ僧・最澄です。
奈良仏教の僧・行表に弟子入りし、僧として着実に出世していきます。彼は遣唐使として唐に渡る前から、比叡山を修業の場としており、現在の根本中堂にあたる一乗止観院という草庵を立てました。
そこに薬師如来を安置。やがて「唐で新しい教えを必ず持ち帰るぞ」との希望がかない、804年に遣唐使の還学生(短期留学生)に任命され、唐に渡ります。唐では浙江省東部にある天台山に登り、国清寺で学びました。1年後の805年に日本に戻ります。
帰国後すぐに病床にあった桓武天皇の病気平癒などを行い活躍。一時期は同時に唐に渡った真言宗の祖・空海とも交流があります。しかし急いで密教を得ようとした最澄に対して、空海は違和感があり途中で決裂。
「こっちは忙しいのに空海は密教を教えようとしない屑だ!」と、最澄は真言密教の取得をあきらめます。その後、独自の教えを確立した最澄は、仏教僧の証である具足戒を廃棄。
弟子たちには代わりに大乗戒を受けさせ、比叡山中で修業する菩薩僧を義務付けます。こうして天台宗・延暦寺は、できたばかりの平安京から見て東北の方角に当たる鬼門の位置「比叡山で」開かれました。以降は修行僧たちにとっての仏教大学としての機能を有することになります。
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南都の旧仏教との対立
「奈良仏教の考えは古い!」最澄が延暦寺を本山として開いた天台宗は、空海が高野山で開いた真言宗同様平安仏教(平安二宗)と呼ばれます。日本で仏教が伝来したのは飛鳥時代。この当時の仏教は鎮護国家と言う思想の元、仏教の力で国家を安泰させるという考えで用いられました。
奈良仏教には、6つの宗派が存在し、これを南都六宗と呼びます。当時の仏教は大衆相手に仏陀の教えを広めるというより、学問のひとつとしてお互いの教義を学び合いました。最澄も元々はこの南都六宗の僧のひとりとして唐に渡っています。
当時は東大寺にのみ戒壇を授ける場がありました。最澄も含め、ここで授けられることにより正式な僧とみなされます。ところが最澄はこことは別に比叡山に戒壇を設けようとして南都側と対立します。
ここで南都側の主力宗派「法相宗」の僧である徳一と論争を行いました。その論争は個人への誹謗とも言える激しさ。最終的に最澄が徳一を論破し優位に立ちました。しかし最澄の存命中は道半ばの状態。彼の教えを継いだ円仁、円珍といった優秀な後継者誕生により、徐々に延暦寺の天台宗が勢力を強めて行きました。
逆に法相宗ら南都勢力は衰えていきます。また意外なことに、空海は南都六宗とは対立することなく協調性がありました。
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僧兵を産んだ円仁と円珍の対立
最澄が開いた天台宗は、初期に天台宗の教えについて根本的な考えの違いが起きて分裂します。最澄の教えは、法華経としてまとめられ、延暦寺ではそれが最も重要なものとして扱われました。
ところが、天台宗にはそれとは別に密教の考えがあります。密教は空海の真言宗に通じるもの。最澄自身が空海に学びに行ったという経緯があります。この密教の教えを通じて、最澄の弟子が異なる考え・思想を生み出しました。
それは次の通りです。
1、円仁派「法華経の教えは密教の教えと同じである」
2、円珍派「法華経の教えよりもレベルが高いのが密教である」
ただし注意すべき点として、派閥は後にできたもので、
円仁と円珍は対立していません。ちなみに円仁は808年に最澄に直接弟子入りし、修業の後地方の巡礼を行います。最澄の教えを忠実に伝え、後に3代座主となりました。
円珍は円仁より後の時代に登場。入門当初は比叡山で12年の修業を積みます。その後、飛鳥時代の修験道の祖・役小角を慕うようになり、修験道の発展に寄与しました。後に5代座主となり、比叡山山麓にある三井寺で活躍。
密教の思想も取り入れられた三井修験道を発展させます。そしてこの両者の死後に、延暦寺でふたりの高僧を信奉するふたつの勢力に分かれてしまいます。円珍派と言われる人は993年に下山。円珍が賜り存命中に拠点としていた三井寺(園城寺)に向かいました。
彼らは寺門派と呼ばれます。一方山に残った円仁派のグループは山門派です。やがてこの両者は思想的な対立に加えて
政治的に力のある貴族が双方のバックにつき、事あるごとに武力的な対立を起こしますした。その対立を通じで両勢力に出来上がったのが僧兵と呼ばれるもの。本来殺生を慎むべき仏教僧が武器を持って相手を殺傷するという矛盾が始まります。
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延暦寺から出た名僧
延暦寺は、最澄を祖とする天台宗の総本山で、座主と呼ばれるトップの存在の他にも、日本の仏教界や歴史の表舞台で活躍する僧侶がいます。代表的なものだけでも次の通り。
1.武蔵坊弁慶
2.天海
3.法然
4.親鸞
5.栄西
6.道元
7.日蓮
武蔵坊弁慶は、鬼若と呼ばれ比叡山に入りますが、修業もせずに乱暴を働いて追い出されました。五条大橋で源義経と出会ってからは行動を共にします。
比叡山由来で有名なものに延暦寺の山門派と対立していた寺門派の三井寺の鐘を引き吊ったというものがあります。天海は天台宗の僧。比叡山で学んだという記録があります。しかし彼はむしろ信長で焼き討ちされたのちに延暦寺と深くかかわった人物。
家康の側近として、1607年に比叡山探題執行と言う立場で比叡山を再興しました。また家康死後も3代将軍家光の時代まで仕えました。天海はこのほか日光東照宮や寛永寺の造営にもかかわっています。このほか、日本仏教の多くの宗派は鎌倉時代に誕生しますが、その宗祖と呼ばれる人物の多くが延暦寺出身。
浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮です。唯一時宗の祖一遍は比叡山の経験がありません。ただ西の叡山こと書写山には登りました。彼らはいずれも比叡山・延暦寺で仏教の基礎を学び、あるいは修行をおこないました。
その後に新しい教えに出会います。そして自らの宗派を切り開きました。つまり現在の日本にある仏教の主力宗派の多くは、元をただせば延暦寺となります。
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