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過酷な忍びの扱い
大胡城に夜襲を掛けようとして、凍死した忍びは特別に悲惨な事ではないようです。というのも先に述べた通り、真冬の闇夜は敵の奇襲はまずないという戦国時代の常識が存在していたからです。忍びは真冬に城の濠をズブ濡れになってまで渡り、城の内応者と連絡をつけ、なんとしても情報を掴むべく奮闘しました。
忍者が活躍する時代劇では、敵の忍者に追われた忍者が逃走を諦め迎撃して斬り伏せるみたいなシーンが登場しますが、情報収集で放たれた忍びの場合には、とにかく1人でも生き残り情報をもたらす事が最優先されたので、ひたすらに逃げていたそうです。いくら敵を斬ったところで、雇い主が求めているのは情報ですから戦意がないのは当然と言えば、当然ですね。
戦国時代ライターkawausoの独り言
このように過酷な任務を与えられた忍びですが、よく忍びを使う武将は恩賞の大盤振る舞いで、その手柄に報いたそうです。
信濃国小県真田本城主の真田昌幸は、配下の忍びに思い切った恩賞を与える事で有名で、忍びが望んだ土地がすでに他の武将に渡っている場合でも、領地替えをしてまで与え約束を守っていました。
そのため、昌幸の忍びは命を惜しまずに戦い、度々大手柄を立てました。もしかすると、由良成繁の忍びも凍死の危険を冒す価値がある多額の恩賞が提示されたのかも知れませんね。死んでしまっては貰えませんけどね。
参考文献:戦国の忍び 角川文書
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