戦国時代の海戦と言えば、織田信長の鉄甲船が毛利水軍を撃破した第2次木津川の戦いが有名です。しかし、よく考えると不思議じゃないですか。
その時代には、ヨーロッパではすでにガレオン船が存在し、大砲を積み込んでレパントの戦いのような海戦も起きているのに、どうして日本はガレオン船を海戦に利用せず、わざわざ鉄甲船を考案したのでしょうか?
今回は戦国日本がガレオン船を海戦に利用しなかった理由を考えます。
日本がガレオン船を建造しない理由はズバリ
では、戦国日本でガレオン船が建造されなかった理由をズバリ言いましょう。
遠洋航海用のガレオンは、浅瀬で戦う日本国内の海戦に向かなかったからです。
ガレオン船は、元々大航海時代を迎えたヨーロッパで開発された外洋航海に特化した船で荷物を多く積み込み、長期の航海に耐えられる頑丈な船でした。積載量が多いので大砲も積み込めるのですが、海戦は外洋で行われる事が多く、沿岸の浅瀬での戦いでは、別の種類の船舶が活動しています。
日本でも事情は同じであり、ガレオン船のように遠洋に出れなくても沿岸を航行出来る船があれば、それでよかったのです。
日本は「交易用」に2隻のガレオン船を建造した
元々、ガレオン船は遠洋航行のために建造された商業船でした。そこで、海外との交易の為、日本でもガレオン船が建造されています。それが、慶長12年(1607年)に徳川家康の命令で、ウィリアム・アダムスが伊豆国伊東の松川河口で建造したサン・ブエナ・ベントゥーラ号で排水量120トン。
もう1隻は伊達政宗が幕府に許可を得て、宣教師ルイス・ソテロとセバスティアン・ビスカイノに命じて仙台藩石巻で建造させたサン・ファン・バウティスタ号500トンです。
サン・ファン・バウティスタ号は太平洋を2往復しており、設計者は外国人とはいえ、当時の日本の大工の技術の高さがうかがえます。軍艦としてのガレオン船には着目しなかった家康や政宗も、遠洋を航海するにはガレオン船をあっさり選択しているという事は、沿岸の戦闘にはガレオン船は不向きであると、当時の指導者が認識していたからと考えられます。
艦隊戦の概念がない
第二次木津川の戦いで、織田信長は安宅船に鉄板を貼り付けた鉄甲船を六隻建造して、毛利水軍と村上水軍を撃破しました。しかし、鉄甲船を持っていたのは織田水軍だけであり、毛利も村上水軍も関船や小早のような中型と小型の船で、当然、大砲の撃ちあいにはなっていません。
もし、毛利水軍も鉄甲船を持ち大砲を搭載していたなら、信長は装甲を犠牲にしても、より多くの大砲が積めるガレオン船を建造したかも知れませんが、実際には一方的に大砲を打ち込むだけですから、海に安定して浮かんでさえいれば、それでいいのです。大砲を撃ち合うような艦隊戦が戦国日本では起きなかったので、ガレオン船の建造も必要なかったと考えられます。
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艦砲射撃はやっている
艦隊による大砲の撃ちあいをを想定していなかった戦国日本ですが、逆に艦砲射撃の歴史は古く、すでに永禄4年(1561年)には、門司城の戦いでキリシタン大名、大友宗麟がポルトガル船に支援要請をして門司城に艦砲射撃を加えた記録があります。その後は、織田水軍が長島一向一揆で艦砲射撃を行い、豊臣秀吉の小田原攻めでも長宗我部水軍の大黒丸が北条氏の支城、下田城に対する海上攻撃をしています。
戦国日本は、道路が未整備で重い大砲を運んでいくのは大変でした。それを考えると、船に大砲を載せて行える艦砲射撃は魅力的な攻撃だったのでしょう。しかし、艦隊戦を想定しているわけではないので、別に大砲さえ載れば船はガレオンでなくても構わなかったのです。
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