戦国時代は後期になると万単位の兵力が頻繁に動員されるようになり、孤高の一匹狼よりも周囲と協調してチームワークで仕事が出来る人材が重宝されるようになります。
このチームワークでの仕事を得意としたのが、織田信長の黒母衣衆として仕えた蜂屋頼隆だったのです。彼の人生は、多彩な味方と共にワークする正に友達百人を地で行くものでした。
この記事の目次
織田信長に古くから仕える
蜂屋氏は土岐氏の一族で美濃加茂郡蜂屋村の土豪とされますが頼隆自身の出自は不明です。頼隆は織田信長に古くから仕えていますが、信長以前の経歴は不明で金森長近の同僚として信長公記に出てくるのでかつて美濃斎藤氏の家臣だった可能性があるようです。
天文21年(1552年)赤塚の戦いで足軽衆の頭として蜂屋般若介なる蜂屋姓の人物名が登場しますが、この人物が蜂屋頼隆かどうかは不明です。頼隆が確実に信長の家臣として記録されるのは永禄年間で、この頃には黒母衣衆として信長の馬廻衆でした。
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多くの国持大名を出した馬廻衆
蜂屋頼隆が信長の馬廻衆だった事は、頼隆の立身に大きな意味を持っています。
織田信長というと合理主義者で、敵でも才能があるものはドシドシ取り立て古くからの家臣でも功績がない者は次々切り捨てたと考えられていますが、実際に信長の配下で国持ち大名まで昇進したのは、永禄元年(1558年)清須織田家を統一した頃までに信長に仕官した古参の武将に限られました。
松永久秀や明智光秀のような中途採用組で国持大名になった武将もいますが、彼らは元々有力大名や将軍家の家臣から織田家に移籍した人々で信長は従来以上の好待遇を約束する必要があったのです。
蜂屋頼隆は、金森長近や原長頼、森長可等と共に永禄元年に間に合った古参の武将であり、信長に信頼され国持大名まで出世する幸運に恵まれました。
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信長暗殺団を阻止
永禄2年(1559年)蜂屋頼隆は、信長が初めて上洛した際80人の随行員の1人として同行。信長公記には、斎藤義龍の命令を受け信長暗殺を狙う美濃衆の集団を丹羽兵蔵という人物が察知、金森長近と蜂屋頼隆に通報、頼隆が信長に刺客に追われている事を告げ暗殺事件を阻止した話があります。
ただ、この話に出てくる美濃衆はかなりマヌケでおっちょこちょいであり、本当かどうか怪しいです。
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行政も軍事も友達と一緒!
最初の上洛から9年後、永禄11年(1568年)信長が足利義昭を奉じて上洛すると頼隆は部将の1人として一隊を指揮し、柴田勝家、森可成、坂井政尚と共に先陣を命じられ岩成友通の籠城する勝竜寺城を攻め、協力して敵の首50余りを討ち取りました。
頼隆は、その後もこの4人で京都の政務に携わり、さらに佐久間信盛や和田惟政を加えて政務を取り仕切ります。以後の頼隆は何をするにも仲間とのチームワークを重視し、単独で何かを為したケースはほとんどなくなります。
元亀3年(1572年)4月、三好義継が松永久秀父子と謀り畠山昭高と対立。松永久秀は畠山氏の部将、安見新七郎を攻めて交野に砦を築き、頼隆は信長の命令で柴田勝家、森可成、坂井政尚、斎藤利治、稲葉一鉄、氏家直昌、安藤守就、不破光治、丸毛長照、多賀常則や足利義昭の配下の諸将と共に三好・松永方の交野城を包囲します。
またしても美濃勢を中心としたお仲間と揃い踏みですが敵は風雨に紛れて脱出しました。
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足利義昭追放に活躍
元亀4年(1573年)2月、今度は足利義昭が信長と対立して蜂起を促したので頼隆は、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀と近江石山城、今堅田城の攻撃を命じられ今堅田城は光秀、長秀、頼隆に攻撃されて落城します。
同年3月29日、信長が京都を出陣、頼隆は義昭を脅迫するために4月2日洛外の寺社関連の建物を除外して家々に放火、義昭は当初無視しますが翌日に上京が焼き払われると、たまらず降伏を申し出ました。
主君信長の命令に忠実という点も頼隆の特徴でしょう。その為には罪もない上京の庶民の家も平気で焼き払います。同年7月、義昭が再度挙兵、二条御所に寵臣を置いて自らは槙島城に籠城。頼隆は信長に従い出陣し義昭を追放しました。
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蘭奢待切り取りにも友達と参加
天正元年(1573年)8月、頼隆は一乗谷城の戦いに参加します。しかし頼隆を含め、滝川一益、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、稲葉一鉄は朝倉勢の退却に気づかず信長に叱責を受けます。
このとき、佐久間信盛は恐縮もせずに信長に自慢話をしたと言い、これが後年、折檻状罪状の1つにされました。頼隆が何を言ったかは不明ですが神妙にしていたのでしょう。
さらに、9月には、北伊勢攻めに従軍、信盛、秀吉、長秀とともに西別所城を落城させます。天正2年(1574年)3月、頼隆は東大寺の蘭奢待切り取りに参加、塙直政、菅屋長頼、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、荒木村重、武井夕庵、松井友閑、織田信澄と特使となり奉行を務めました。
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苛烈な一向一揆との戦いも仲間と一緒
信長・信忠が諸将を動員して伊勢長島に出陣すると頼隆も従軍します。頼隆は、佐久間信盛、柴田勝家、稲葉一鉄、貞通父子と賀鳥口を担当。
その後、頼隆は柴田勝家、稲葉一鉄貞通父子と大鳥居城の降伏を認めずに攻めたて、激しい風雨の中を脱出しようとした男女1,000人ばかりを斬殺します。
9月29日、一向一揆勢は降伏するとして長島城を退去しますが、信長は許さずに囲いに追い込んで焼き殺し根絶やしにしました。頼隆の大鳥居城皆殺しも信長の意向を受けての事でしょうが、命令順守が徹底していますね。
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織田信忠の補佐役として友達と一緒
天正5年(1577年)2月10日、頼隆は雑賀攻めに出陣する織田家当主の織田信忠に近江愛智郡肥田城を宿舎として提供。すでにこの頃には、頼隆も織田家宿将の1人として琵琶湖沿岸の城を与えられています。
信忠の軍勢は、信長が滞在する京都に集結し13日に出陣しますが悪天候でしばしば延期。天正5年3月1日、信長は、頼隆、滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、長岡藤孝、筒井順慶に、鈴木重秀の雑賀城を攻撃させます。
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松永・荒木討伐も友達と一緒
天正5年8月に松永久秀が反逆すると、頼隆は9月、再び出陣した信忠に肥田城を宿舎として提供。
翌、天正6年(1578年)4月、頼隆は信忠と大坂へ出陣し石山本願寺攻めに加わり、同年、年6月、再び信忠に従って播磨に従軍。滝川一益、稲葉一鉄、筒井順慶、武藤舜秀、明智光秀、安藤守就、氏家直昌、荒木村重で神吉城を攻撃し7月16日に落城させます。
同年11月に荒木村重が謀反すると信長は摂津へ出陣。頼隆には、滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、安藤守就、氏家直昌、稲葉一鉄と共に、荒木陣営の茨木城に対する付け城・太田郷砦の普請が命じられます。
付城の普請が完成すると築城を行った七将と武藤舜秀、羽柴秀吉、長岡藤孝に有岡城の戦いの先陣が命じられます。
息をつく暇もない多忙な毎日ですが、頼隆は元気です。同僚の明智光秀は過労で倒れて生死の境をさまよっていますけどね。この呆れるほどのタフさも信長に気に入られた一因なのでしょう。
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信長からの褒美も友達と一緒
天正6年12月、信長は村重が籠城する有岡城の周囲に付け城を築くように命じ、頼隆、長秀、蒲生氏郷、高山右近、織田信孝はそのひとつの塚口郷の砦に在番しました。
織田信長は有岡城包囲が越年になると各地で鷹狩りに興じ、有岡城を包囲する頼隆、一益、舜秀、長秀、福富秀勝の5名に鷂3羽、小男鷹2羽を褒美に与えています。
天正7年(1579年)9月2日夜、村重が数名の供だけをつれて脱出。滝川一益の調略をきっかけに、10月15日より有岡城の支城への猛攻が始まり裸城となった有岡城は降伏を申し出ますが信長は降伏を拒絶。
19日、荒木方の部将が尼崎城の村重を説得するために有岡城を退去。妻子を人質として残していき、有岡城は織田信澄が接収します。
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友達、佐久間信盛の権限を引き継ぐ
天正8年(1580年)8月、佐久間信盛・信栄親子が高野山に追放されます。蜂屋頼隆には宿老の信盛が持っていた権限の一部が委譲され和泉国の支配権を与えられました。
ただし頼隆は、丹羽長秀、織田信澄と本願寺門徒が退いた大坂に入城し以後も大坂で活動。天正9年(1581年)2月28日、京都御馬揃えにおいて頼隆は丹羽長秀に次ぐ二番手として登場、河内衆、和泉衆、根来衆の一部・佐野衆を指揮します。
甲州征伐では、頼隆の和泉国は紀伊を警戒するように命じられます。織田信忠が高遠城を陥落させると、3月に信長が畿内の軍勢を動員して出陣したのに従いますが、武田勝頼、信勝親子は自害したので戦闘には参加せずに終わりました。
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丹羽長秀、織田信澄と神戸信孝の補佐役に
天正10年5月、信長が四国攻めの総大将に三男神戸信孝を指名した際、頼隆は丹羽長秀、織田信澄と信孝の与力に命じられます。しかし、6月2日、渡海準備中に本能寺の変が勃発。信長が横死して四国遠征も中止されます。
この時、蜂屋頼隆は岸和田城にいて、5日、信孝と長秀が行った明智光秀の女婿であった織田信澄襲撃には関与しませんでした。ただ頼隆は以後も神戸信孝、丹羽長秀と行動を共にし羽柴秀吉が山陰から東上して来ると合流。
6月13日、山崎の戦いにおいては織田信孝の配下で出陣し勝ち組に属します。本能寺の変の戦後処理である清洲会議において頼隆に3万石の加増があったと太閤記には、書かれていますが史実かどうかは不明です。
蜂屋頼隆は、羽柴秀吉と柴田勝家、信孝らが対立した際に秀吉に味方し「天正記」によれば、織田信孝の居城である岐阜城を攻める軍勢に加わっていたそうです。
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商業都市敦賀に移封
天正11年、賤ヶ岳の戦いの後、頼隆は和泉国から越前国敦賀郡へと移封となり敦賀5万石を与えられます。和泉国の石高は約14万石もあったので石高上では減収でした。
しかし、敦賀湊は日本海貿易の重要拠点で、敦賀の町は北陸道の陸路交易および軍事の重要拠点でもあったので実収見込みや戦略上の重要さは和泉国以上でした。
また、天正11年5月、領内の西福寺に宛てた禁制で頼隆は「出羽守」と署名しているので、この頃、出羽守の受領名を受けたと考えられ、また三層の天守を持つ敦賀城を築城しています。
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豊臣政権下では少数兵力で合戦に従軍
頼隆は、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで兵1,500を率いて秀吉に従軍。天正13年(1585年)頃、の秀吉の関白宣下に際し頼隆も従四位・侍従に叙任されたと思われ、同時に秀吉より羽柴の姓を与えられ、以後「羽柴敦賀侍従」を称します。
同年8月、佐々成政に対する富山の役に従軍、天正15年(1587年)の九州の役にも兵500を率いて従軍し翌年、秀吉より豊臣の姓を下賜されます。後陽成天皇の聚楽第行幸では、関白秀吉の行列に供奉し秀吉に忠誠を誓う起請文の22名の国持大名とともに「敦賀侍従豊臣頼隆」と署名しました。
天正17年(1589年)9月頼隆は死去。頼隆には後継がなく家は断絶になりました。
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日本史ライターkawausoの独り言
蜂屋頼隆は、個別の活動が目立ちにくい人物です。
それもその筈で、大半の事業を4~5人、多い時には10人近い仲間と実施しているからで、ここから見ると頼隆は同僚と波風を立てずに協調して仕事をする人物だったのでしょう。
一方で主君信長に対する忠誠は激烈で、一向一揆を皆殺しにし大坂本願寺とも激闘、力戦もあり京都馬揃えでは、丹羽長秀に次ぐ2番手の栄誉を受けています。
しかし、信長が死んでからは上手く秀吉に乗り換えたもののパワーダウンし、小大名の地位に甘んじたのは、やはり信長への忠誠心が秀吉に対するそれよりも上回ったせいなのか?それとも、かつての同僚部下として秀吉が頼隆を敬して遠ざけたのか?
理由は定かではありません。
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