1世紀以上も続いた戦国時代を終結させた豊臣秀吉。
農民出身から天下を獲ったのは、長い日本の歴史の中でも秀吉ただ1人であり、裸一貫から己の才覚のみを頼りに乱世をのし上がる様子は、無数の小説、映画、ドラマ、ゲームの題材となり、戦国時代ファンじゃなくても、知らない人はいない知名度です。
しかし、そんな秀吉も晩年については、散々な評価になるほど性格が激変してしまいます。
特に、弟の豊臣秀長が死んだ後の晩年の7年は自ら豊臣政権の屋台骨を壊すような奇行に出ますが、その原因は病気の後遺症ではないかとも言われているのです。
この記事の目次
豊臣秀吉の主な奇行
豊臣秀吉の晩年の奇行として有名なものには以下の事例があります。
①10日間開催の予定だった北野大茶会が、初日開催しただけで中止になった。
②自分が切腹に追い込んだ千利休の死を忘れ、利休に伏見築城の命令を下した。
③伏見大地震で倒壊した大仏に罵詈雑言を浴びせ弓矢で射た。
④五大老に何度も秀頼を頼むと誓詞を書かせた。
⑤甥の豊臣秀次を高野山に追いやり自害させただけでなく一族も皆殺しにした。
これら一連の行動には、奇行と断定するモノから、色々事情があったというものまで、様々な説がありますが、少なくとも、これらは秀吉の晩年、1591年以後に起きている事は明らかです。
そして、秀吉が奇行を引き起こした原因として秀吉が健康を損ないウェルニッケ脳症を引き起こした後遺症ではないかという説があります。
ウェルニッケ脳症
ウェルニッケ脳症は、ビタミンB1(チアミン)の不足により発生します。こちらのチアミンは、雑穀類に含まれていて、精米されていない玄米を食べている庶民には無縁でしたが、精米された米を食べる貴族がチアミン不足に陥り、ウェルニッケ脳症を発症するケースはあったと考えられます。
症状は、歩行困難や手足の震え、手足のむくみ、そして最終的には心不全を起こして死んでしまう脚気に似た深刻な病気です。農民の出自である秀吉は、若い頃は何でも食べていましたし、食事も玄米が主でしたから、チアミン不足に悩む事はありませんでした。
しかし、天下を統一し、自身も関白太政大臣になると、生活が貴族化し、食事も白米中心になり、チアミン不足が顕在化したのではないかと考えられます。幸いにして秀吉は、心不全による死を免れましたが、後遺症であるコルサコフ症候群になってしまった可能性が考えられます。
認知症に近い症状のコルサコフ症候群
ウェルニッケ脳症から回復しても、80%の人はコルサコフ症候群の後遺症が残ります。こちらは健忘症候群とも言い、理解力や計算などの能力は比較的保たれるものの、記憶力が著しく低下する病気だそうです。
また、病気になる前の記憶が失われたり、新しいことを覚えることができなくなったりする後遺症や、重症の場合には記憶力以外の認知機能が低下し認知症と診断されるケースも見られるそうです。
もし、秀吉がコルサコフ症候群になったとしたら、自分が処刑した利休があたかも生きているような発言をした②と、五大老に何度も秀頼を頼むと誓詞を書かせた④の原因が、記憶力の著しい低下で説明できます。
そして、厄介なのは、軽症のコルサコフ症候群だと、記憶力以外の能力、理解力や計算力は比較的に維持されるので、秀吉の周辺の重臣も秀吉が認知症になったと把握できないまま、事態を悪化させた可能性があるのです。
新しい事が理解できない秀吉が朝鮮出兵を長引かせる
コルサコフ症候群の症状に照らし合わせると、秀吉が失敗が明らかになった慶長の役をいつまでも中止しなかった理由も、説明がつきます。
秀吉の脳内では、文禄の役の初戦の快進撃が強く印象に残り、それ以後の戦線の膠着と、補給の悪化という新しい情報が理解できなくなった可能性があります。
重臣たちは困惑しますが、一方で秀吉は計算能力や論理的な思考は出来ているので、秀吉がすでに正常な思考が出来ていないと把握できず、(ご自身がやり始めた事なので、意固地になっている困った事だ)としか思えず、傷が浅いうちに朝鮮出兵を取りやめる判断がつかなかったのではないでしょうか?
また、⑤ですが、一時は後継者と目していた豊臣秀次は朝鮮出兵に否定的だったそうで、秀吉に朝鮮に渡り指揮を執るように命じられても、喘息の悪化を理由に断っています。
しかし、秀吉からすれば、(勝ち戦の指揮も執れないのか臆病者め!)となってしまい、後に秀次を排除する原因になったかも知れません。
粗悪な大仏を造らせた事を忘れた?
③の方広寺の大仏ですが、こちらは秀吉が造らせたもので、全長18メートルと奈良の大仏よりも大きいのですが、青銅製の奈良の大仏と違い、木を組んで漆喰でおおい上から金箔を塗ったハリボテ大仏でした。
もちろん大地震で持つはずもなく、大仏殿は軽微な損害でしたが、大仏は腕が取れ、胸も破損してしまいました。しかし、秀吉は自分が材料費をケチってハリボテを造らせた事を忘れたかのように、大仏を役立たずと罵り、弓矢で射て憂さを晴らしたのです。
忘れたかのようにではなく、本当に忘れていたのかも知れません。
①の北野大茶会にしても、10日間の開催予定を忘れてしまい、初日だけやって、そのままやりきったとして、放り出した可能性もあります。
関連記事:徳川家康のルーツ十八松平とは?江戸時代まで十四家も残った生命力が強い一族を解説
誰も隠居させられない暴走老人秀吉
本当の認知症であれば、記憶力以外の計算能力や判断能力も低下するので、次第に自分で采配が振るえなくなり、周囲も秀吉を騙すようにして強制隠居に持ち込めたでしょう。
しかし、コルサコフ症候群の秀吉は、まだらボケ状態であり、時々に天下人らしい判断を下したので、周囲はオカシイと思いつつも、強制隠居に踏み込めなかったかも知れません。
それ以前に、秀吉の地位を継げる後継者は育っておらず、例え、まだらボケでも、秀吉を守り立てる以外に、豊臣政権の手の打ちようはなかったのかも知れませんが…
戦国時代ライターkawausoの独り言
今回は、秀吉晩年の奇行について、解説してみました。
秀吉認知症説は、最近よく話題に上りますが、本当に認知症なら、全般的な能力低下で、明らかに政務が執れなくなり、速やかに豊臣秀次への政権移譲が行われていたのではないかと考えます。
それを考えると、秀吉の奇行は認知症ではなく、コルサコフ症候群による記憶力だけの低下、いわゆるまだらボケ状態であり、周囲もおかしいと思いつつも、対応が遅れたのではないでしょうか?
参考:Wikipedia
関連記事:豊臣秀吉と明智光秀の関係はライバルか仲間か?二人の関係性を検証
関連記事:豊臣秀吉によるバテレン追放令の内容とは?戦国時代のキリスト教事情