戦国時代の末期、伊予の河野水軍は、「羽柴(豊臣)秀吉」の四国攻めにより戦国大名としては滅亡しました。1585年(天正13年)8月末のことでした。(※四国攻め当時の秀吉は、豊臣姓ではなく、羽柴姓でした。豊臣姓になるのは、翌年の1586年です。)
ただ、最後の当主「河野通直」は、その後も本拠地だった湯築城近くの「道後」地域で過ごしていたようです。しかし、天正15 年(1587年)の7月に、安芸の竹原(現在の広島県)にて急死するのです。
僅か23歳の若さでした。死因は、元々病気がちでもあったため、病死とする説が有力でした。それが、近年では、自害説や暗殺説が目立ってきているのです。今回は、通直の死の真相を探っていきます。
通直の死の記述には不自然な点あり!
伊予水軍の河野一族の歴史記録として知られる資料で、『予陽河野家譜』がありますが、これは、後代の江戸期に書かれたもので、信憑性に欠けると言われてきました。例えば、通直の死亡直前の行程が、矛盾のある書き方ではないかと指摘されています。つまり、伊予国(愛媛県)の地元(道後)を出発したのが「天正15年7月9日」というのですが、通直の死亡日とされるのは、「同年7月15日」と記載されています。
その間に、有馬温泉(兵庫県)で湯治し、その後、高野山(和歌山県)にも参詣し、さらに安芸国(現在の広島県)に向かい、竹原で死去したと記録されているようです。しかし、当時としては、この行程では、僅か6日間で回ることは無理というものです。しかも、実際の死亡日は7月14日(太陽暦では8月17日)というのが正確のようですから、誤記ということにもなるようです。
そこで、信憑性がある記録としては、「ルイス・フロイス」が書いた『日本史』なのです。ここに河野通直に関する記述があるのです。それによると、通直の伊予からの出国は、7月初め頃になるということなのです。すると、『予陽河野家譜』の記述よりは、伊予からの出国が9日程早いということになり、先ほどの行程を回った可能性はあるのです。
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ルイス・フロイスの『日本史』を参考にすると秀吉の策略か?
ルイス・フロイスの『日本史』を参考にしながら追究していくと、注目すべきことがいくつも分かってくるようです。通直の死の直前、豊臣秀吉が九州平定後の帰京の途上だったということであり、安芸の三原(広島県)に立ち寄ったようなのです。その頃、通直は竹原に向かっています。その二つの地点を結ぶ距離は20km弱です。
その近くで、秀吉に会った可能性は大いにあります。そこで、自害に追い込まれたか、あるいは殺害された可能性が考えられるのです。その理由として、大方の見方では、毛利一族と縁が深かった、河野一族の力を少しでも削ぎたいという気持ちが強かったというものです。しかし、次のような疑問が生じてくるのです。
病気がちと言われていた通直を、何故殺したのか?ということです。
四国攻めで、秀吉に対して最も抵抗した、土佐の「長宗我部元親」は生き残ったのですから。そうやって探究していると、別の真実も見えてくるのです。
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ヨーロッパからの使者?
ここで注目すべき事実として、天正15年(1587年)1月頃から7月初めにかけて、キリスト教の宣教師たちが、伊予国内に入り、道後に滞在していたということです。つまり、通直が、道後地域に蟄居していた時期と重なります。しかも、通直の居宅を宣教師たちが訪問し、通直自身はそれを歓待したというのです。通直の方からローマ字を学びたいと願い、宣教師たちから資料を送ってもらったという記録も残っています。
そして、その宣教師たちの道後滞在が終わる頃、九州平定を完成させた秀吉により、『バテレン(伴天連)追放令』が出されたのです。日本における キリスト教勢力(特にカトリック教会のイエズス会)を追放する目的がありました。それは、「天正15年6月19日( 太陽暦では1587年7月24日)」に出されたと記録されています。つまり、通直の死の直前ということです。
宣教師たちが道後を出立するのは、天正15年7月の初めです。慌ただしく道後をあとにして、伊予から出て行ったというのです。伴天連追放令により、宣教師たちは伊予を出国する必要に迫られ、その約2週間後、通直は死亡するのです。宣教師たちと通直の顔合わせが、秀吉に不興をかった可能性は高いのではないでしょうか?
スペイン王の影
河野水軍の当主だった通直がキリスト教勢力になびくと、それに続いて伊予国の家臣たちや庶民たちがなびくかもしれないと、秀吉は恐れた可能性があります。キリシタン大名となった者たちが、宣教師たちの背後にいた、キリスト教国家のヨーロッパの国に結びつくことを恐れたのでしょうか。当時日本に積極的に入ってきていたキリスト教の宣教師たちは、「イエズス会」だったようです。イエズス会の裏には、「ポルトガル」とそれを併合していた「スペイン」が控えておりました。そして、当時のスペイン王は「フェリペ2世」で絶世期の頃だったのです。
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おわりに
「アルマダの海戦」により、スペインの無敵艦隊が、イングランド・オランダの連合軍に敗北するのは、通直の死の翌年1588年のことでしたから、1587年の九州平定時においてはキリスト教の宣教師の存在は、秀吉にとっては脅威だったのではないかと思うのです。フェリペ2世のスペインに日本が侵攻されるという恐怖もあったかもしれませんね。
(了)
【主要参考】
・『完訳フロイス日本史11』(ルイス・フロイス 著 )中公文庫より 【特に65章と66章を参照】
・戦国期の権力と婚姻(西尾和美 著)清文堂
・『日本史』(ルイス・フロイス 著 )
・愛媛県生涯学習センター『えひめの記憶』より「豊臣秀吉の四国征圧」「キリシタンの伝来と愛媛県」
など
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