上杉謙信といえば、仏教マニアで戦闘マニアで、色恋沙汰にもほとんど興味を示さない、優等生の典型のようなイメージ。
「戦争オタクのお坊さん」という印象でとらえられているのではないでしょうか?
そのために、「酒にも女にも惑わされない人だった」と直感的に思っている方も多いかもしれません。ところがどうして、その実像に迫ってみると、意外なことにたいへんなお酒好きだったことがわかります。
そのうえ、食事のマナーについても、現代人からすると「え?」と思うような荒々しい姿勢だったことが窺えるのです。どういうことでしょうか?
この記事の目次
上杉謙信の飲み会はヤバかった?!近衛前嗣の証言
上杉謙信の酒好きについて、貴重な証言を残してくれているのが、近衛前嗣。いろいろな面で謙信と共闘することになったお公家さんです。この近衛前嗣が、上杉謙信が京都にやってきた際に、宴会に付き合わされた旨の証言を文章に遺しているのです。
そこには、
「謙信と飲むと、面白い席となってしまい、つい飲みすぎる」
「謙信は、若い男たちを集める宴会が好きだ」
「おかげで二日酔いになった、苦しい」などといった意味のことが書かれています。
近衛前嗣もまたお酒が好きな人物と見受けられますが、そんな彼を酔いつぶれさせて二日酔いに追い込んだ謙信は、そうとうに「飲めるクチ」、かなりの酒豪だったのではないでしょうか?
京都を訪問した際には若い衆を集めて宴会をするのを楽しみにしていたというのも、
マジメ人間の印象の謙信像からすると、いささか意外な感じがします。
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その領土からすると酒豪になるも当たり前?
しかし考えてみると、上杉謙信が拠点とした越後国は、現代の新潟県。またその後半生では、北陸地方に進出し、現代でいう石川県あたりまでを版図に吸収してしまっています。
現代でも日本有数の米どころ・酒どころとして観光客に人気なこの一帯を、自分の領国として経営していたわけですから、お酒もお米も、魚も野菜も、ハイレベルな産物が揃ったことでしょう。もともとストレスも多いはずの戦国大名としての人生。
そんな戦国大名が、美味の国、すなわち北陸一帯を制覇していたのですから、これはもう、食通・酒豪になるのは運命だったかもしれません。別の証言では、上杉謙信は出陣の前には、海の幸山の幸を豪勢にあつめて、兵士たちに大盤振る舞いをした、とも伝えられています。
本人も自分の領国の山海の産物を振る舞うことが、軍隊の士気を上げる方法として、自覚していたのではないでしょうか?
その食事の席は存外あらっぽかったような
酒豪かつなかなかの食通であったかもしれない上杉謙信。そんな謙信の食事風景はどんなものか、想像はつきますでしょうか。やはり謹直峻厳、難しい顔をしながらチビチビと、行儀よく食事をしているイメージになりますでしょうか?
ところが、このイメージを覆す証言も遺っています。
問題となるのは、ライバルである武田信玄が亡くなったとき。
このとき、上杉謙信は湯漬けを食べていたそうですが、しらせを受けると湯漬けをブーッと吐き出して、「そうか。信玄が死んだか。まことに当代の英雄を失った」というようなカッコいいことを言ったとか。
カッコいいのですけど、なんで湯漬けを吐き出したのでしょう?
飲み込んでから喋ればいいような気もするのですが。
このあたり、意外なことに、上杉謙信の食事風景は、粗野な豪傑タイプ。ごはんを食べながらしゃべったり、なにかあると「ブーッ」と吐き出したりと、なかなかにあらあらしい席であったのかもしれません。
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まとめ:その死因もまた酒のせいだった?
上杉謙信の食事習慣については、もうひとつ気になることがあります。これもよく知られているとおり、上杉謙信は唐突にトイレで倒れて急死してしまい、後継者が決まっていなかったことで死後の家中に混乱をきたします。
それにしても、この「トイレで急に倒れてそのまま亡くなる」というのは、高血圧の中年には起こり得る亡くなり方。現代医学では、これを防ぐには「塩分とお酒の取りすぎに注意」というのが常識ですが。
上杉謙信の生前の言行を調べてみると、彼の最高の好物は、「うめぼしをおつまみにして、お酒を飲むこと」だったそうな。
戦国史ライターYASHIROの独り言
うめぼしをおつまみに、お酒!
塩分とアルコールの取りすぎに一発でなってしまうこの献立。証拠はありませんが、彼の急死と無関係とも、思えません。上杉謙信ファンの方々も、彼の食生活についてだけは、マネをしないほうがよいかもしれませんね。
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