洋の東西を問わず歴史には奸臣や佞臣という存在が出てきます。彼らは実際、主君の判断を誤らせたりもしますが、主君を悪しざまに書く事が憚られる時代では、主君の判断ミスまで全て奸臣や佞臣に押し付けられる事もしばしばでした。
今回の「ほのぼの日本史」は、そんな過剰にディスられた奸臣の1人長坂光堅を取り上げます。
この記事の目次
永正10年に誕生
長坂光堅は永正10年(1513年)に誕生したとされます。光堅が誕生した頃の甲斐は武田信虎が新たな当主となり一族の内紛を治めて、今川氏や大井氏などの近隣勢力と和睦し上杉禅秀の乱以来、動乱を続けた甲斐武田氏が統一に向かう過程にありました。
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諏訪支配の拠点高遠城に入城
光堅が史料に出てくるのは、武田晴信が父信虎を追放した後、天文年間の信濃侵攻からです。当初光堅は足軽大将として諏訪郡代板垣信方を補佐する上原在城衆となり上原城に入城。天文17年(1548年)の上田原の戦いで板垣信方が戦死すると後任の諏訪郡代として上原城に派遣され、翌年には諏訪支配の拠点高島城に入城しました。
その後、北信濃領有を巡り越後上杉氏との抗争が激しくなると、北信濃国衆香坂氏の取り込みを図り、一方では光堅の子昌国と武田家臣真田幸隆息女との縁組がなされました。天文23年には、遠江の国衆天野景泰への使者を務め、第三次川中島の戦いでは、日向虎頭と共に越後上杉氏の侵攻に備えて北信地域の探索を命じられ、また三枝虎吉、室住虎光らと奉行人として行政官の仕事もしています。
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信玄が出家すると一緒に出家
永禄2年(1559年)武田晴信が出家すると、光堅も原虎胤、真田幸隆、小幡虎盛と共に出家し釣閑斎と号します。長坂光堅は早くから勝頼と関係が深く、信玄没後は武田信豊、跡部勝資等とともに家督を継いだ武田勝頼に引き続いて重用されたそうです。
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長篠合戦で敗戦の原因に?
甲陽軍鑑によると、長坂光堅は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて信玄以来の家臣である山県昌景、内藤昌豊、馬場信春ら宿老たちが敵の陣城、予想外の大兵力を理由に撤退を進言したのに対し逆に攻撃するように進言しました。
この判断により、光堅は長篠大惨敗の切っ掛けを造ったと非難されています。しかし、この記述に関して長篠の戦いの前日の日付を持つ長閑斎宛ての勝頼の書状が存在し、その当時「長閑斎」は武田領国のいずれかの城を守備していて長篠の戦いに参加していない事が指摘されました。
長篠の戦場にいない光堅が勝頼に戦争を進言するのはおかしいので、光堅が長篠の戦いの敗因を造ったというのは甲陽軍鑑の勘違いか冤罪だとも考えられます。
ところが近年、勝頼が書状を出した長閑斎とは光堅ではなく、今福長閑斎友清に比定されるのではないかという反論が出ました。それならば、長閑斎違いで光堅は長篠にいた事になりますが、だとしても進言を受け入れたのは勝頼であり光堅だけが非難されるのは可哀想な気もします。
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上杉からの軍資金を横領?
また、甲陽軍鑑では、天正6年(1578年)上杉謙信死後に勝頼が御館の乱で上杉景勝と甲越同盟を結んで資金援助を受けた時、光堅はその金を一部横領したという記述があります。
この時、春日虎綱は勝頼に光堅を追放するように提言したものの、光堅の甘言に惑わされていた勝頼は受け入れなかったと言われます。しかし実際には上杉との取次は北信・東信の責任者だった小諸城将武田信豊が務めていて甲陽軍鑑の記述には確実性がない事が指摘され、どうも長坂光堅は甲陽軍鑑の編纂者から目の敵にされ必要以上にディスられているようです。
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最後は勝頼を見捨てて甲斐で死んだ?
天正10年(1582年)3月、織田と徳川連合軍の甲州征伐に際し武田勝頼は新府城を放棄し都留郡の小山田信茂を頼りますが、信茂の離反で3月11日に山梨郡田野で自害。鎌倉時代から続いた武田家は滅亡します。
「甲乱記」によると、この時光堅は、勝頼と行動を共にせず甲府に残り子息の昌国とともに織田側に捕縛され処刑されたと記録しており、また、光堅をディスっている「甲陽軍鑑」では、光堅は親族衆の一条信竜の屋敷で処刑されたとし主君を見捨てた奸臣としています。ところが、「信長公記」は光堅が勝頼に従い戦死したと記述し、有能か無能かはさておき光堅が勝頼に忠義を尽くして死んだと記録しました。
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とても奸臣とは呼べない光堅
甲陽軍鑑は武田勝頼に遠ざけられた信玄時代の重臣春日虎綱か彼に近い親族が書いたとされ、勝頼重臣である跡部勝資や長坂光堅についての評価は辛辣なものが多くなっています。例えば甲陽軍鑑では武田信玄が光堅を「口だけしか動かない男」として嫌っていたとあり、上杉景勝からの軍資金援助の横領についても、光堅は跡部勝資とともに景勝家臣斎藤朝信を通じて賄賂を受け取ったと虚偽を書いています。
しかし信玄ほどの男が「口だけしか動かない男」光堅を重臣板垣信方の後任に据えたり、北信濃の豪族香坂氏の調略を任せたり、北信濃の地形を調査させて上杉氏の侵攻に備えたとはとても思えません。
ここには、甲陽軍鑑の編者による長坂光堅への嫉妬が悪意となって反映していると考えられ、そうして考えると光堅の失敗は長篠合戦で主戦論を唱えただけとなり、とても武田家を滅亡に追いやった奸臣とは呼べないでしょう。
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日本史ライターkawausoの独り言
ハッキリと形に残る合戦での働きに比較して、調略や内政面の事は結果が出るまで時間がかかります。光堅は戦働きこそありませんが少なくとも30年以上、失脚する事もなく武田家に仕えたので、優秀な男だったのではないかと思います。
ただ、猛将ではなかった点と勝頼に信頼されて排除されなかった事で、信玄の重臣で勝頼時代に不遇な目にあった者達の妬みを買い、甲陽軍鑑に悪しざまにかかれて、奸臣のような扱いになったのでしょう。
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