戦国武将、島津義弘は生涯で52度の合戦に出陣し、寡兵で大軍を打ち破る勇猛さを示したり、関ケ原の戦いでは西軍について敗北を悟ると徳川家康の本陣の前を横切り最短距離で帰ろうとするなど大胆な武人です。
特に朝鮮出兵では7000人で8万の明・朝鮮連合軍を撃破するなど、桁外れの強さを見せつけ鬼石曼子(鬼島津)と恐れられました。そんな、荒々しい武人に見える島津義弘ですが、意外にも7匹もの猫を飼っており猫神社まで建立する猫好きだったのです。
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文禄・慶長の役で7匹の猫を引き連れた島津義弘
島津義弘が7匹の猫を飼っていたと言っても、常日頃から7匹の猫に塗れてモフモフしていたのではありません。義弘が7匹の猫を飼ったのは豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役の時でした。九州征伐で秀吉の軍門に下った島津軍は、朝鮮出兵に従軍せざるを得ず、1万人近い武士が出征していますが、島津軍の指揮は義弘が執りました。
この時に義弘は7匹の猫を朝鮮半島に引き連れていったのです。
過酷な戦場でのストレスを軽減すべくモフモフ要員として、と思いきやそうではなく、義弘が猫を引き連れたのは、戦場での時間の経過を測る為でした。猫の瞳孔は太陽光線の量で、皿のように丸くなったり、針のように細くなったりして光を調節しています。島津義弘はこれを利用し、戦場の時間の経過を把握しようとしていたのです。
過酷な戦場で7匹の猫は2匹まで減少
朝鮮半島は日本よりも寒さが過酷でした。特に戦線が膠着してくると防寒の備えがない日本軍は、過酷な寒さで多くの凍傷、凍死者を出す事になります。この過酷さは乾燥した砂漠で生まれ、寒さに弱い猫にも容赦なく襲い掛かり、義弘の引き連れた7匹の猫の内、5匹は可哀想に亡くなってしまいました。朝鮮出兵が失敗して島津軍が撤退した時、残っていた猫はヤスとミケの2匹だけだったそうです。
猫に自分の名前を付けた島津久保
こちらのヤスという猫は、義弘の次男、島津久保がとても可愛がり自分の名前をつけたものです。朝鮮の戦場でヤスは久保の慰めになったのでしょうが、名付け親の久保は、文禄2年(1593年)に巨済島で20歳の若さで病死しました。
父である島津義弘は、死んだ久保の為に南無阿弥陀仏を冠した和歌を詠んでいますが、同時に、息子が可愛がった白に黄色の波紋の猫、ヤスも気に留めたのでしょう。この事が後に猫神神社を建立する伏線になったのではないかとkawausoは思います。
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帰国後、猫神社を建立する島津義弘
日本に帰還した後、ヤスとミケが病死すると、義弘は2匹の猫を祀った猫神神社を建立しました。これは、朝鮮の役で自分達を助けてくれた7匹の猫に対する感謝と、次男の久保を慰めてくれた猫のヤスに対する感謝もあるのでしょう。
長い日本の歴史でも、猫を神様として祀ったのは義弘1人であり、彼が強いだけではなく恩義を大事にする優しい人であった事を窺わせます。この猫神神社は、現在でも鹿児島市にある島津家の別邸跡、仙巌園にあり、猫好きの聖地になっています。
義弘以外にもいた!猫に救われた偉人
猫に助けられたのは、島津義弘だけではありません。
例えば、室町時代の武将、太田資長(道灌)は文明9年(1477年)に豊島泰経との間で起きた江古田原・沼袋の戦いの緒戦で敗れ逃げている途中に道に迷ってしまいました。
疲労して闇雲に逃げる気力もなく、途方に暮れた太田道灌ですが、目の前に一匹の黒猫が出現。道灌に、くいくいと手招きしたので、不思議に思ってついていくと自性院というお寺に辿り着いたのです。
当時、お寺はアジールとして俗世間の権力が及ばない場所だったので、道灌は寺に逃げ込んで1日休み、翌日逃げ出して無事に本拠地に帰り着きます。
道灌は黒猫を命の恩人として持ち帰って大層可愛がり、猫の死後には自性院に猫地蔵尊を寄進し、自性院は招き猫発祥の地の一つとされます。
もう1人、井伊直政の子で、大坂の陣で手柄を立てた井伊直孝は、鷹狩りの帰りに貧しい弘徳庵という寺の前を通りかかりますが、そこに猫がいて直孝を手招きします。
直孝が猫につられて寺に入ると、突然に土砂降りの雷雨になり直孝は暇つぶしに和尚と世間話をしている間に意気投合、弘徳庵は井伊家の菩提寺になり豪徳寺と改称するのです。
貧乏寺が35万石の井伊家の菩提寺になったので、この猫は福を招くとして評判になりこちらも招き猫発祥の地と呼ばれています。
日本史ライターkawausoの独り言
今回は猫神社を建立した鬼島津、島津義弘について取り上げてみました。島津義弘はただ強いだけではなく、教養もあり慈悲深い人としても知られています。
例えば、義弘は若い武士が家督を継いで出仕すると、先代が優秀な人物の時には、「先代のように立派な手柄を立てよ」と激励し、先代が不出来な場合には、「先代はダメだったが、お前には見込みがあるから励むがよい」と激励していたそうです。このような義弘ですから、猫もぞんざいに扱う事なく、ちゃんと恩義を忘れずに神社まで建立して報いたんでしょうね。
参考:Wikipedia
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