明治時代

東京師範学校とは?日本の近代化をリードした先生の学校

東京高等師範学校(東京師範学校) wikipedia

東京師範学校 / wikipedia

 

東京師範学校(とうきょうしはんがっこう)とは、明治5年(1872年)近代教育の担い手となるべき教員の育成を重視して設立された先生を養成する学校です。明治政府は、日本の近代化には教育が重要だと認識しており、まず師範である先生を養成しようとしました。

 

今回は、日本の近代教育に大きな貢献をした東京師範学校について解説しましょう。

 

お雇い外国人を招聘して贅沢に開校

 

明治5年9月、文部省は学制公布を前に小学校の教師を教育する師範を養成する為の東京師範学校を開校します。校長には諸葛信澄(もろくずのぶすみ)を置き、師範学校は師範教育に詳しいアメリカ人教育者のマリオン・M・スコットを教員として招聘。

 

多額のお金を掛けて、教員も教具も全てアメリカから取り寄せた上に、アメリカの小学校の教授方法をそのまま導入して教育を開始します。今から考えると、かなり唐突で急いでいる感じですが、日本式のカリキュラムを造るより、一刻も早い小学校教員の養成が重視されたのです。

 

東京師範学校は、一師範学校ではなく、今後展開される教員養成機関のモデルケースであり、全国の小学校で使用される国定教科書や小学校の教員の規範となるべき小学教則の編成が行われていました。

 

こうして、明治6年7月に送り出された第1回師範学校の卒業生は、各府県の教員養成機関の訓導(くんどう)、あるいは府県庁の学務担当吏員となり新たな教授法や教育課程を普及させる事に尽力します。

 

西南戦争で東京以外の官立師範学校全滅

 

明治6年(1873年)東京以外にも6大学区にも官立の師範学校、大坂、宮城、愛知、広島、長崎、新潟が設立されると東京師範学校は東京高等師範学校と改称。小学校教員がある程度拡充した事を受けて、次には中等教員養成の為の中学師範学科が設置されました。

 

しかし、7つあった官立の師範学校は西南戦争における戦費により財政難になった政府により、東京師範以外の6師範学校が次々と廃止になり、小学校教員の養成は府県立の師範学校に移っていきます。

 

それにより東京師範学校の役割は中等学校教員の養成機関へと変化していきました。明治18年(1885年)には東京女子師範学校(とうきょうじょししはんがっこう)(及び付属学校園)を東京師範学校に統合して女子部とし全国で唯一の官立師範学校への道を進みます。

 

【スポーツと共に歩んだ日本近代史】
いだてん

 

軍隊化していく東京高等師範学校

スキッパーキ

 

明治19年(1886年)4月の師範学校令により、尋常師範学校(じんじょうしはんがっこう)と高等師範学校が分離して制度化されると、東京師範学校は、高等師範学校へ改称改組されて、全国唯一の「高等師範学校」となり、初代校長には現役の陸軍軍人山川浩(やまかわひろし)が就任します。

 

この学校は、文部大臣管轄下で国費で運営される官立学校で、小学校教員の養成にあたり、尋常師範学校の校長、教員の養成を中心に中等学校教員養成を担うものとされました。

 

また、官立として高等師範学校の運営は尋常師範同様に国家の強力な支配下に置かれ、東京高等師範学校は、山川校長の下で忠君愛国教育(ちゅうくんあいこくきょういく)の推進の要として寄宿舎生活から服装に至るまで完全に軍隊化されました。

 

Emperor(天皇のシルエット)

 

さらに師範教育令に基づき高師は師範学校・尋常中学校・高等女学校など広く中等学校全般の教員養成機関として位置づけられ、これに相応しい学科・課程が整備されました。これ以降、高等師範学校は全国の中等学校に教員を供給し明治15年(1882年)に発足した同窓会「茗渓会」を通じ戦前期の中等教育界に大きな影響を及ぼします。平たく言うと国家の方針に従って天皇に絶対の忠誠を誓う教員を育てる機関として高師が皇民化教育を推進する原動力になったんですね。

 

貧しい生徒に人気がある高師

えのころ飯を食べる薩摩藩士

 

こんな規則が厳しい軍隊式の学校に入る人いるの?と思うかも知れませんが、高師は貧しい学生には、なかなか人気がありました。

 

それは、高等師範学校では授業料が無料であり、さらに政府から学費と被服費用が支給されて、経済面は優遇されていたからです。その代わり、卒業後は旧制中学や高等女学校や師範学校などの教員になる義務があり、しかも決められた期間は辞職を許されませんでした。

 

こんな理由から、貧困家庭の成績優秀者が授業料無料の高師に集まったのです。最終的に教員を目指さない者は、一度決まった年限教師を勤め終えてから、帝国大学に入学、卒業して財界等で活躍しました。日露戦争の奉天大会戦で活躍した秋山好古(あきやまよしふる)も、家が貧しかったので一度高師に入り、教職員を経てから陸軍に入っています。

 

加納治五郎が校長になりスポーツのメッカに

マラソン日本代表として走る中村勘九郎 いだてん

 

明治35年(1902年)第2の官立高等師範学校が広島に設立されると、高等師範学校は「東京高等師範学校」と再び改称。明治44年(1911年)には、広島を含む高師卒業者を対象とする「専攻科」が設置されます。

 

また、明治23年(1890年)以降、大正9年(1920年)に至るまで3度校長に就任した嘉納治五郎(かのうじごろう)の下で軍隊式が一部緩和されて、スポーツ活動を通じた人材育成が進められました。

 

「これは極論なんだがね、、東京高等師範学校の生徒は最低でも1つのスポーツに親しまないといけない、そう思わないか?」

 

嘉納治五郎は、こんな感じで東京高等師範学校に運動場を造営、東京高師の生徒の心身壮健を目指し指導したのです。

 

結果、東京高師からは、金栗四三(かなぐりしぞう)野口源三郎(のぐちげんざぶろう)茂木善作(もぎぜんさく)吉岡隆徳(よしおかたかのり)工藤一三(くどうかずぞう)岡部平太(おかべへいた)太田芳郎(おおたよしろう)のようなアスリートが輩出され、嘉納治五郎は高師の嘉納か?嘉納の高師か?と言われる程に教育の手腕を讃えられました。東京高師には、嘉納治五郎だけでなく、多くの優れた体育教師がいました。

 

日本初の体操教師、坪井玄道(つぼいげんどう)が就任したのも東京高等師範学校で、坪井はフットボール部に就任して日本サッカー殿堂入りを果たしています。スウェーデン体操を学んだ川瀬元九郎(かわせもとくろう)永井道明(ながいみちあき)も東京高師で体育指導を実施し、この体操は大正時代の日本の教育現場で普及していきました。嘉納治五郎や優秀な体育教師の尽力で大正期の日本は、オリンピックでも金メダリストを出すスポーツ大国へと進んでいきます。

 

世界恐慌で廃止のピンチに

編集長kawauso日記02 kawausoさん

 

大正時代に入り、国力の拡大に伴い政府が高等教育機関の拡充を決定すると、多くの高等教育機関が大学に昇格。すると東京高師でも大学への昇格運動が起こり昭和4年(1929年)に東京文理科大学として新しく出発します。

 

名称から教育や師範の文字が消えていますが、これは研究を主とする東京文理科大学に東京高等師範学校が付属するという形の為でした。

 

この時期、各府県で中等教員養成の為の第2部が設置され、また大学令により大学に昇格した私学でも高等師範部の設置が認められると、中等教員養成機関としての東京高師の比重は相対的に低下。昭和4年(1929年)の世界恐慌により政府が財政難に陥ると、東京高師は文部省からの廃止の圧力に直面します。

 

文部省「中等教育の教員養成は民間で間に合っているのに、東京高師を存続させる必要があるんでしょうかねェ、、この財政危機にねェ・・」

 

つまりは、こんな風に文部省が東京高師に圧力を掛けたんですね。

 

廃止を恐れた東京高師は、フランスのエコール・ノルマルに範を取り師範大学に改編するように度々運動しますが、これは研究を重視する文理科大学との対立を生みます。昭和7年(1932年)東京高師の3年修了者にも大学進学が認められ、必ずしも教員になる必要がなくなると、以降の高師は文理大の予科と化していきました。

 

戦後、東京教育大学に吸収され消滅

 

大東亜戦争後、高師・文理大を中心にその他の教育養成機関との統合により、新制大学が設置されると新設大学のイニシアチブを巡り両校の対立が再燃します。一般教養と教職的教養を両立する文理科大学構想に対し、高師は新大学を教員養成の最高機関とする「教育大学」構想を打ち出して対立したのです。

 

やがて、対立を超えて昭和24年(1949年)5月新制東京教育大学の発足、東京高等師範学校は、同校に吸収されて昭和27年(1952年)に名実ともに廃止されました。

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

先生を養成する学校として誕生した師範学校は何度も名称を変更しつつ、それでも中等教員を養成し、日本全国に送り込む戦前教育の中核として機能し、同時に嘉納治五郎学校長の就任で日本のスポーツ教育の源流になり、多くのアスリートを輩出したのです。

 

昔のスポーツ選手って、肩書が教員の人が多かったのは、そういう理由だったんですね。

 

参考:Wikipedia

 

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