伴与七郎は松平元康が鵜殿長照の守る三河上ノ郷城を攻めた時に協力した甲賀忍者です。その活躍は絶大で上ノ郷城に侵入した上で火薬を用いて城内から火を出し、謀反が起きたと誤認した城兵の士気を下げた上で城主の鵜殿長照を討ち取り、さらに長照の長男を捕らえる大手柄を揚げました。そんな凄腕忍者、伴与七郎は何者なのでしょうか?
甲賀の多羅尾光俊の配下
伴与七郎は松平元康の家臣である松井忠次が甲賀の多羅尾光俊に協力を依頼して派遣された甲賀忍者であるようです。もっとも、与七郎が甲賀忍者であるとした記載はありませんが、火薬を使って城内に火を起こしたり、城に忍び込むような軽業は武士の仕業とは考えにくく、忍者の仕事の一つであるようです。
こちらもCHECK
-
多羅尾光俊とは?甲賀忍者の親玉で8万石の大名になった男が没落して体験した奇跡
続きを見る
ボスである多羅尾光俊とは?
伴与七郎の上司にあたる多羅尾光俊とはどんな人なのでしょうか?
光俊は近江国甲賀郡信楽庄小川の住人で当初は南近江の守護、六角氏に属していましたが六角氏の没落後は織田信長に味方しました。
本能寺の変後、堺にいた家康が脱出を図った時、光俊の五男山口光広が家康と同行していた長谷川秀一と交友があったので、家康を援護する事に決め、嫡男、多羅尾光太と共に家康を信楽に招き入れ、家康の伊賀越には、三男、多羅尾光雅や光広に甲賀衆を加えて伊勢白子浜まで警護させたそうです。
こうしてみると、多羅尾光俊自身は忍者ではないようですが、その配下に甲賀衆を従えていると見られる事から、伴与七郎も甲賀忍者と考えてよさそうです。
こちらもCHECK
-
服部半蔵の死因は?どんな晩年を送っていたの?【どうする家康】
続きを見る
伴与七郎の一族は?
三河後風土記によれば、伴与七郎は諱を資定と言い、同族とみられる人物として、伴太郎左衛門資家、伴伯耆守資継の名前が見られるそうで、いずれも一族として上ノ郷城攻めに参加したのかも知れません。
こちらもCHECK
-
戦国時代の伊賀上野はどんな土地?信長も警戒し、家康も忍者に助けられた拠点
続きを見る
大活躍から家康より感状を受ける
伴与七郎の上ノ郷城攻めの活躍はほとんど独り勝ちと言ってもよいものです。首尾よく城に忍び込み、火を起こして城内を混乱に陥らせたばかりか、落ち延びようとする城主、鵜殿長照を討ち取り、その嫡男である氏長と氏次の兄弟まで捕らえています。
当時、元康は妻子を駿府の今川氏真に取られており、なんとか取り返したいと考えていましたが、鵜殿氏は今川義元の血を引く家系である事から元康は人質交換を氏真に持ちかけて、妻子を取り戻す事に成功しています。元康は伴与七郎の活躍に感謝したらしく、感状を発行してその働きを賞賛しました。
こちらもCHECK
-
日本史検定を実施します!10月27日(日)生配信
続きを見る
その後が一切不明な伴与七郎
上ノ郷城を落城させ、今後の活躍が期待できそうな伴与七郎ですが、不思議な事にその後の記録が一切ありません。主君らしき多羅尾光俊については後々、8万石の大名に出世した事が分かりますが、与七郎にはこれという記録もないのです。
もしかして、与七郎はそれなりに年齢を重ねた老齢の忍者で途中で病死したのか?それとも、別の任務でしくじって命を落としたのか?その消息は忍者のように分からなくなっています。
こちらもCHECK
-
忍びはどうして夜中に活躍するの?【素朴な疑問】
続きを見る
日本史ライターkawausoの独り言
上ノ郷城を陥落させ鵜殿長照を討ち取り、その子まで捕らえ家康の悩みのタネだった駿府に捕らえられた妻子を取り返すまでの道筋まで描き出した甲賀忍者伴与七郎、城に侵入し火薬を使うなど、その手法は明らかに凄腕忍者ですが、活躍はただの一度であり、後は歴史の闇に消えてしまいました。
こちらもCHECK
-
安土城下町はデンジャラスな魔都だった?
続きを見る