ドラマのような忍びの活躍
司馬遼太郎の歴史小説「梟の城」には、豊臣秀吉暗殺の為、大阪城に潜入する忍者、葛籠重蔵が登場しますが、史実にも、織田信長の近くにまで接近した忍びがいました。
天正二年(1574年)5月、織田信長は滞在していた京都から急遽岐阜に帰還します。理由は武田勝頼が遠江に侵攻し、徳川方の高天神城を包囲したとの報告を受けた為で、岐阜城に入って家康支援の準備に入ったのです。
しかし、その岐阜滞在の途中、6月6日、武田勝頼が放った多数の忍びが、岐阜城の門を乗り越え、城内のどこかの曲輪にまで侵入したのです。この時、岐阜城の警備は手薄であり、忍びはこのまま信長の元まで到達する可能性がありました。
幸い、途中で横井時泰なる武芸の達人がそれに気づいて忍びと斬り合いになり、これを切り伏せたので、残りの忍びは失敗を悟り散ってしまったようです。
信長はヒヤッとしたようで、横井時泰に感状を与えて褒め、より城の警備を厳重にするように命じています。しかし、もし、横井が突破されたら岐阜城内に火が放たれ混乱の中で信長も殺害され、史実より8年早く歴史に激震が走る可能性もありました。
戦国時代ライターkawausoの独り言
忍びが夜に活動した理由は、夜が無法地帯として認識されていた事。そして、忍びに関しては夜中に活動する事を雇い主の戦国大名が認めていたからです。一切の法的保護が期待できない中で、実力だけで他国の忍びと激闘を続ける忍び達。まさに、夜はアウトローである忍びの世界だったのですね。
参考文献:戦国の忍び 平山優 角川新書
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