勢力拡大から本能寺まで
義昭を追放し、室町幕府を滅ぼした信長は、拠点を近江の安土に城を築きます。これが安土城です。信長はこの安土を拠点にして、各地域に大軍団を派遣しました。
安土城が完成する1年前には宿敵、甲斐の武田勝頼を長篠の合戦にて徳川との連合軍で打ち破ります。
さらに上杉謙信と1577年に戦い敗れるも、翌年謙信が死去。また関東の北条氏も従属を申し入れてきます。信長は播磨から西方面への討伐に秀吉を指名し、秀吉は播磨、備前を支配下に毛利との戦いを繰り広げます。そのほか毛利の先にある九州の大名、大友・島津らとの誼を通じました。やがて武田勝頼を天正10年3月に滅ぼしました。同じ時期に四国への遠征を準備。三男の織田信孝が総司令官です。
こうして天下人への道を確実に歩み続ける信長ですが、突然悲劇が起こりました。それが本能寺の変です。秀吉からの要請で安土を出発した信長は、明智光秀にも秀吉の援軍を命じます。自らは京都の本能寺に入り、嫡男で織田家を継いでいた織田信忠は二条城に入りました。
ところが突然光秀が裏切り、本能寺に攻め入り信長は死亡。信忠も二条城で明智軍に滅ぼされてしまいました。
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清州会議
信長のカリスマ性により存在していたともいえる織田政権は、信長の死により一気に揺らぎます。それどころか嫡男の信忠まで失ってしまいました。
謀反人の光秀は中国から大返しをした秀吉により山崎で敗れ去ります。その後織田家の後継者を決めるために行われたのが清洲会議です。これは信長が清洲城から勢力を広めて行ったことにちなんだもの。当時の重臣で力があったのは北陸地方に勢力を持っていた柴田勝家。しかし光秀をいち早く倒した秀吉の力も急速に伸びていきます。
勝家は三男の信孝を後継者に推しますが、秀吉は信長の孫で信秀の嫡男・三法師(織田信秀)を推します。その結果秀吉の意見が通り、家督が三法師、後見人に信孝と次男の信雄ということで決まります。それぞれが領地の配分を行いました。
この時点では一応織田政権としての体裁が残っています。その後秀吉と勝家との対立が激化し、秀吉は信孝や勝家を滅ぼし、織田家を実効支配していきます。
やがて秀吉は、信長の同盟者で大大名だった徳川家康とも戦ったのち、彼を従わせることに成功しました。さらに秀吉は信長の最高位であった右大臣よりもさらに上の位である関白となります。ここで織田政権が名実と共に消滅しました。代わって豊臣政権が樹立されていきます。
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戦国時代ライターSoyokazeの独り言
織田政権は信長により確立され、斬新な政権の印象があります。実際にはそこまで斬新ではない戦国大名の巨大化した勢力にすぎません。足利将軍家を追放し新しい時代を築きましたが、本能寺で敗れ去ります。しかし信長の目指した天下統一はこの後秀吉によりなされています。
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