戦乱の世、人の命ほど儚いものはなかったことでしょう。戦になれば人が死ぬのは避けられず、それは大名と言えども例外は……あんまりない。しかしその戦国の世を生き抜いた人物の一人こそ、常陸の小田氏治。戦いにつぐ戦い、争いにつぐ争い。そんな戦乱の世を生き抜いた彼、小田氏治の驚きの死因とは!?それが今回のお話であります。
※分かる人にはもう落ちが分かってるとか言わないでね!
この記事の目次
傾きかけた家と、これから色々な意味で盛り上げる氏治
さて小田氏治のお家、小田家は常陸の国の名門。氏治の父親である小田政治は小田家の中興の祖とも言われ、小田家の勢力拡大に積極的で、その地盤を広げて行っていたのですが……1545年の河越野戦で足利家と共に敗北、相手の佐竹、北条家が勢いづくのを許してしまいます。そして1548年、失意の内に亡くなる政治、後継者となった嫡男・氏治はまだ14歳でした。
ここからこの氏治が、驚きの戦歴を後世に残すとは誰も思わなかったでしょう……。
戦い(敗北)!戦い(落城)!戦い(復帰)!戦い(落城)!
そこから小田氏治の闘いの歴史が始まりました。分かりやすく言うと、戦って負けて、戦って落城して、戦って何とか取り戻して、戦って落城することを繰り返します。落城を、繰り返します。
落城などというものはそうそう繰り返すものではありません。しかしここで落城を何度も繰り返したというのが小田氏治の凄い所ですね。このため小田氏治は戦国最弱、と言われることもありますが、そうでもないと筆者は思います。何せ落城を繰り返すということは、少なくとも何回も取り戻しているのですから。
最大のライバル・佐竹義昭の死が氏治のフラグ
そんな小田氏治のライバルと言えば、佐竹義昭でしょう。小田氏治はこの佐竹義昭相手に何度も戦い、敗北したり、奇襲を受けたり、落城させられたりと接戦を繰り返しています。しかし劣勢も劣勢の中、1565年、11月3日。35歳と言う早すぎる死により、この佐竹義昭は常陸統一を眼前に見据えながら死去します。
その後継者となったのがまだ若い、後の「鬼義重」こと佐竹義重なので、ご存知の人には「一回りヤバいんじゃないか?」と思われますが、まあ小田家のピンチはこれからも続くことになるのでした。
※横道※佐竹義昭の死因はもしかして暗殺?
ちょっとここで横道にそれてしまいますが、小田氏治の終生のライバル、越後の龍的に言うと甲斐の虎的なアレな存在、それこそが佐竹義昭。前述したように、佐竹義昭は1565年に35歳で病死しています。
これ以前、1562年に実は佐竹義昭は息子である義重に家督を譲って隠居しました。つまり32歳で既に隠居しているのですね。とは言え、この時点でも佐竹家の実権は握り続けているのですが……ですが、これが「そもそも病弱であった」と言われる理由の一つとされ、35歳での死も病死、とされることとなったのです。
しかしこの突然の死は暗殺とも噂されており、もしや小田氏治の天才的なカンとか何かあれや其れや陰謀渦巻いた結果かも……しれないし、そうでもないかもしれませんね!(※はっきりしていません)
戦国の世を生き抜いた、小田氏治の最期
では小田氏治のお話に戻りましょう。常陸であっちと戦ったり、こっちに逃げたりしていた小田氏治ですが、遂にその時がやって来ます。1590年、豊臣秀吉による小田原攻めです。
そもそも北条家と仲が良く、手助けをして貰っていた関係の小田家。何より佐竹と手は結べないぜ!なに!佐竹は豊臣に臣従したって!?なさけないやつめ!……という思惑があったかどうかは不明ですが、ここで佐竹に取られていた小田城を取り戻そうとしたのが運の尽きか、更に小田原攻めに参陣しなかった小田家は改易をくらうこととなりました。
小田家の終焉、そしてライバル・佐竹の顛末
結局、小田家は領土は没収され、大名としての小田家はここに終わりを迎えることになります。しかしここでも小田氏治は生き延びる、なんと娘が結城秀康の側室になっていたのです。このため結城秀康に客分として300石を与えられ、余生を過ごすこととなります。
その後は結城秀康の転封に従い、嫡男と共に越前浅羽に移り、1602年、もしくは1604年に小田氏治は亡くなるのでした。享年は68、もしくは71歳とされます。因みに1602年は関ヶ原の戦いの一件で、佐竹家が転封され、常陸の旧領から秋田へと飛ばされることになった年という、ある意味運命を感じる年でもあるのでした。
結局のところ、小田氏治の死因とはなにか?
ではここで小田氏治の死因について、述べましょう。天寿(ドーン)!
まあ詳しいことが判明していないとはいえ、戦国時代に68ないし71まで生きたとすれば、大体病気だったとしても天寿と言って差し支えないと思われます。こう言うと「小田氏治の驚きの死因とか言ったじゃないか!」とお怒りの言葉を受けそうですが、その小田氏治の人生は戦いと敗北と落城の繰り返しでした。
そんな中で何だかんだ生き残って天寿を全うした。これはもう驚きと言って差し支えないと思うのですが、皆さんはどうお考えでしょうか?
戦国ひよこライター センのひとりごと
繰り返しますが、小田氏治の死因とはほぼ、天寿全うと言えます。常陸の国で乱世を生き抜き、正に生き抜いた人物でもあるのに、それにも関わらず天寿を全う。中々ない人生を送った人物ではないでしょうか。
佐竹家も佐竹家でまあ転封されても秋田で良く生きたという家ということもあり、中々に面白い人物たちが集まっていますね、常陸の国。
よろしければ皆さんも、こちらにももっと目を向けてみて下さいね。ちゃぽーん。
参考:小田氏十五代―豪族四百年の興亡
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