美濃のマムシ、斎藤道三。織田信長の舅でもあるため、織田信長を取り扱った物語にはほぼ出てくる人物です。まあそう言ってしまうと割と序盤に死んでしまう人物でもあるのですが。其れも含めて、戦国時代の武将の中でも結構印象的な武将ではないでしょうか。
そんな斎藤道三の死因……実はこの死因、戦国時代にあってかーなーり、珍しい部類だと思われます。今回はそれも含めて、斎藤道三についてお話をしましょうか。
この記事の目次
驚愕の事実!美濃のマムシ、マムシではなかった!?
まずお話をしたいのが、美濃の蝮について。戦国時代にはこう呼び名がたくさんあります。例えば越後の龍、甲斐の虎、出羽の狐、肥前の熊、四国の蝙蝠……はちょっと違うかな?ともあれ、こういう呼び名は良く見かけると思います。
しかしこの斎藤道三の「美濃の蝮」については、当時の呼び名ではありません。後世に坂口安吾「信長」や山岡荘八「織田信長」といった小説の影響で、斎藤道三=美濃の蝮のイメージが広まったのです。
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恐ろしい蝮のイメージが斎藤道三に付けられた訳
ではここで美濃の蝮、どうしてそんな名前が付けられたか、についてのお話です。
まず触れなければいけないのが「日本三大梟雄」について。梟雄とは梟の雄のこと、転じて「残忍かつ、非道であり、強大であり、なんかカッコいい恐ろしい人物」のことを、梟雄と呼びます。
そしてこの三大梟雄の一羽、いや一人こそが、主君を殺し、国を奪った男。斎藤道三。彼こそが、おぞましい毒を持ち、密やかにその毒で主君を死に至らしめる「蝮」と言う名を付けられた人物なのであります。
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蝮の毒素が回るまで~道三のお得意アプローチ方法~
さて道三がどうやって主君を裏切って国を奪ったかまでを詳しく説明するととんでもなく長くなるのでざっくりと。
簡単に言うと、そもそも道三は貧乏だったのが「油売りのパフォーマンスで一躍有名になって富を手に入れる」ことから、様々な家々を経由して……つまり他所の家に養子入りしてはその家で名を挙げ、更に上に上にと上がっていくことで、30年以上かけて美濃の国の国主であった土岐家を追い出して国を奪った、とされています。
まあ最近では「これはそもそも道三とその父親二代で成し遂げた」説が挙がっていますが、まあここではとりあえず道三が一人で成し遂げたと言う体で話を進めましょうか。
斎藤道三(未)、織田信秀と戦う!
ここで追い出された土岐頼芸は尾張の武将、織田信秀を頼りました。ご存知、織田信長のお父さんです。これを道三は見事撃退し、織田軍を壊滅に追い込みます。
とは言え、織田家とずっと敵対し続けるのも悪手と考えたのか、和睦を結ぶことに。ここで織田信長と、斎藤道三の娘・帰蝶の政略結婚がなされ、もう一度土岐頼芸を追放、美濃を平定して出家、そして
斎藤道三
と名乗るようになるのです。
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息子との関係の悪化から、美濃の蝮、死す
しかし斎藤道三、後を継いだとされる息子の斎藤義龍との関係は非常に悪かったのです。そもそも義龍は道三の子ではなかったため、道三は正室である小見の方が産んだ子供ばかりを可愛がったとも言われています。
そうして1555年、斎藤義龍は母違いの弟二人を殺害し、道三と直接対決することに。この際に多くの家臣は義龍に付き、道三は娘婿、信長の救援も間に合わず、長良川で討死にしました。
もうお分かりでしょうか。斎藤道三の死因は、直接ではなかったにせよ、子による殺害、となるのです。
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戦国時代の死因にしては、異質な死因
さてここでちょっと歴史を振り返ると。如何に戦乱の世とは言っても
親子で戦う。
父親が敗北。
その結果討死。
ここまで揃っている人物はそうそういません。
一つくらいなら当てはまったとしても、その後は和睦したりとか、戦ったと言っても戦争ではなく暗殺とか、関与が疑われているだけで直接とはされていないとか……つまり、道三の「死因・息子(戦)」というのは、かなり異質なものと思います。
そしてここに、道三の「美濃の蝮」という異名が絡んでくるのです。
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美濃の蝮の死因
蝮は皆さんご存知でしょうか。蛇みたいな生き物ですね。この蝮、毒があることでも有名なのですが、もう一つ特徴があります。蝮は「卵胎生」なのです。実は蝮は卵では生まれずに、親がお腹の中で卵を育てて、卵から生まれた姿で産まれてくるのです。このことから蝮は
「親の腹を喰い破って生まれてくる」
非情な生き物として扱われることがありました。親であっても喰い殺す、それが蝮なのです。主君から国を奪った道三は、正に蝮が親を喰らうが如し。そして道三もまた、息子に喰らわれてしまったのです。
美濃の蝮、蝮の子もまた蝮、ということでしょうか。
戦国ひよこライター センのひとりごと
ここまで言ってまた触れるのもなんですが、斎藤義龍は道三の子ではないと言われています。昔なのではっきりと遺伝子検査をしたわけではないので、真実は分かりません。
ただ道三が義龍を冷遇したのが、実の子ではないと思っていたからだとしたなら。
義龍はその行動で、蝮の子であることを証明したのかもしれませんね。ちゃぽーん。
参考文献:信長公記
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