戦国時代

なんで武士は征夷大将軍になりたがる?沢山ある将軍号から選ばれた理由は?

京都御所

 

日本史では鎌倉時代以降、武家政権のトップとして征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の官職が出現します。

 

室町幕府でも江戸幕府でも政権のトップは征夷大将軍でした。しかし、中国や欧州の歴史に出てくる将軍は、ただ一軍を率いる指揮官であり政権のトップではありません。どうして日本だけが征夷大将軍=政権のトップなんでしょうか?

 

そして、どうして武士は征夷大将軍になりたがったのでしょう。

 

日本の都合で生まれた征夷大将軍

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

征夷大将軍とは、元々律令制の令外官(りょうげのかん)として誕生しました。令外官とは、律令制に定めがないという意味で日本の政治都合で付け加えたポストです。

 

では、どうして日本で征夷大将軍というポストが必要になったのか?

 

それは、大和朝廷が東北に支配を伸ばしていく過程で蝦夷と呼ばれる先住民と諍いが生じたからでした。

 

東北の先住民を支配下に置こうとする大和朝廷に対して、東北の蝦夷(えみし)は強く反発し、朝廷は軍を差し向けて度々蝦夷を攻撃します。「蝦夷」を「征服」する大将軍なので征夷大将軍という役職名になりました。

 

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征夷大将軍以外にも将軍号はあった

軍議(日本史)モブb

 

しかし、東北の蝦夷を討伐する将軍に授けた役職名は何も征夷大将軍だけではありません。それ以外にも、鎮東(ちんとう)将軍、持節(じせつ)征夷将軍、持節征東大使(せいとうたいし)、持節征東将軍、征東将軍など様々な名称がありました。

 

ちなみに持節というのは、天皇から軍団の指揮を委ねられ節刀という指揮刀を賜る事を意味し合戦における全権限を保有すると言う意味です。

 

公家同士の会議(モブ)

 

また、征夷大将軍に限りませんが、これら征討将軍は長期にわたり合戦を継続する性質から駐屯地の経営も任され、将軍府(しょうぐんふ)(幕府)を開きスタッフを配置し地域行政を担当します。

これら、朝廷から遠く離れて行政権を行使できる将軍府のメリットは後に武家による幕府が開かれる時に注目される事になりました。

 

そんな多くある将軍号の中で、征夷大将軍が有名になったのは、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)に継いで征夷大将軍になった坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)のお陰でした。田村麻呂は東北の蝦夷の首長である阿弖流為(あてるい)を降伏させて天下に武名を轟かせたのです。

 

この出来事から朝廷は征夷大将軍を特に名誉ある将軍号と考えるようになりました。

 

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源頼朝征夷大将軍に就任

蒙古兵に先駆けをする竹崎季長

 

征夷大将軍は弘仁五年(814年)の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)以降、長い間空位でしたが建久3年、平家を打倒し奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が後鳥羽天皇から任命されます。

 

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

最近の研究では、頼朝は征夷大将軍をピンポイント指定したわけではなく、大将軍であればなんでもよいというスタンスでした。

 

頼朝が大将軍を望んだ理由は、自分よりも先に京都を落し征東大将軍に就任した源義仲と対等の地位を望んだ事。そして大将軍は独立し将軍府を開く事が出来る地位だからです。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

頼朝は京都で政務を執るつもりはなく、鎌倉で東国武士の頂点である鎌倉殿を中核に組織を築き、独立政権を運営するつもりだったので、京都に行かずに地方で権限を行使できる独立性が高い大将軍のポストを望んだのでした。

 

朝廷は大将軍に該当するポストとして、惣官(そうかん)、征東大将軍、征夷大将軍、上将軍の4つの候補をあげますが、惣官は平宗盛(たいらのむねもり)が任官し滅亡。征東大将軍は源義仲(みなもとのよしなか)が任官してやはり滅亡したので不吉という事になります。

 

上将軍は日本では任命した者がいないという事でボツになり、結局蝦夷討伐に功績があった坂上田村麻呂にあやかり征夷大将軍に決定しました。

 

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官位が高かった征夷大将軍

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)

 

もう1つ、征夷大将軍が歴代の幕府に受け継がれた理由があります。それは、源頼朝が正二位という左大臣クラスの高い官位を得た上で征夷大将軍に就任した事でした。

 

この前例から、頼朝以後に征夷大将軍に就任する人物は、戦国の混乱期の足利将軍を除いて、従一位(じゅいちい)から正二位(しょうにい)の高い官位を得てから征夷大将軍に就任する慣例が出来ます。

 

 

逆に将軍の補佐である執権(しっけん)管領(かんれい)大老(たいろう)はおおむね従四位(じゅしい)と遥かに下の官位しかもたず、圧倒的な地位の開きがありました。これは現在で言えば、首相と本省課長ほども役職差があり、征夷大将軍は部下を遥か下に見下ろして絶大な権威を見せつける事が出来たのです。

 

豊臣秀吉に仕える仙石権兵衛秀久

 

ちなみに豊臣秀吉は、どうして征夷大将軍にならなかったか?という疑問を持つ人もいるかも知れませんが、秀吉の場合には先祖伝来の武士団をもっていないので、幕府を創設して、地方から全国を統治するよりも、むしろ朝廷に取り入り関白に就任し天皇の権威を借りて日本を支配しようと考えたからです。

 

豊臣秀吉が亡くなり悲しむ石田三成

 

秀吉は関白になると、側近大名に清華成(せいがなり)と呼ばれる公家相当の地位を与え武家を公家に浸食させて豊臣家を頂点とする序列を作ろうとしましたが、自身の死により試みは頓挫(とんざ)しました。

 

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日本史ライターkawausoのまとめ

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

以上、なんで武士は征夷大将軍になりたがったのかを解説しました。

 

第一は、坂上田村麻呂が東北の蝦夷阿弖流為を降伏させた縁起のよい将軍号である事

第二に、独立性が高く地方に将軍府を開いて統治でき朝廷に戻る必要がない事。

第三には征夷大将軍の官位が部下に比較して非常に高く、絶対的な権威を背景に君臨できたという点があります。

征夷大将軍も一日にしてならずですね。

 

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