攻城兵器と言えば、漫画キングダムやヨーロッパの城塞を攻めるのに投石機を使用したりというイメージがあるかと思います。
日本の場合、都市の周辺を城壁で囲む習慣が無く攻城兵器はあまり発達しなかったのではないかと考えてしまいがちですが、実際には日本でも築城技術の進歩と共に、多くの攻城兵器が考案されていたようです。
この記事の目次
ズバリ紹介!戦国の攻城兵器
では、記事を全て読む時間がないという読者の皆さんの為に、最初で戦国時代に使用された攻城兵器11について列記してみます。
- 車竹束
- 持備
- 木幔
- 亀甲車
- 塔天車
- 攻城車
- 井楼
- 釣井楼
- 焙烙玉
- 仏狼機
- 木砲
いかがでしょうか?
思った以上に多種多様な攻城兵器が存在していたんだなと思いませんか?
では、以下では11種類の攻城兵器について解説します。
戦国時代の攻城兵器 1. 車竹束
車竹束は、竹を編んで盾にしたものを四輪の台車の上に搭載したものです。竹と言うとなんだか貧相ですが、鉄砲の弾を通さないので戦国後期に鉄砲が標準装備されると、広まっていった攻城兵器です。
戦国時代の攻城兵器 2.持備
持備は木製の厚い板を数枚重ねて、間に鉄砲を入れる為の狭間をつけたものです。これにより、城内からの矢や鉄砲の攻撃を回避しつつ、こちらからも鉄砲を撃つ事が可能になりました。元々騎馬の突撃を抑える目的で造られましたが、鉄砲が普及すると対鉄砲兵器として改良がくわえられています。
戦国時代の攻城兵器 3.木幔
木幔は、弓矢や鉄砲に対応した車輪付きの防御盾です。クレーンの要領で、大きな板が前面に吊り下げられていて、兵士は板の内側に隠れつつ、敵の攻撃を回避して城門まで進む事が可能です。クレーンで板を動かす事も出来るので、守備範囲を広くとる事が出来ます。
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戦国時代の攻城兵器 4.亀甲車
亀甲車は、文禄の役における第一次晋州城攻めで、加藤清正・黒田長政軍が製作したと言われる装甲車です。
加藤清正の伝記である清正記によると、100頭の牛を殺して皮を剥ぎ、それを木製の車体の上に被せ、中に足軽を入れて城に突入し石垣を砕いて侵入、分厚い牛の皮は火矢も通さず、無敵の装甲車であったようです。
また、亀甲車は関ケ原の戦いで九州方面の豊臣方の諸将を攻めた黒田官兵衛が使用したとも言われています。
戦国時代の攻城兵器 5.塔天車
塔天車とは、ハシゴつきの台車の事で、人力で押す事で城壁まで到達し、そこからハシゴを掛けて城壁をよじのぼる事になります。しかし、塔天車には前面に覆いがなく、兵士はハシゴを昇る間は、無防備な状態で矢や鉄砲の攻撃に曝される事になりました。
戦国時代の攻城兵器 6.攻城車
攻城車は、塔天車とほぼ同じですが、前面に覆いがついているので、正面からの矢や鉄砲玉の攻撃をある程度は回避できました。ただ、当然の事ですが、城壁の高さにハシゴ車が届かなければ意味がなくなるので、どんな戦場でも使えるという部類の攻城兵器ではありません。
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戦国時代の攻城兵器 7.井楼
井楼とは物見櫓の事で、敵を攻撃すると言うよりも高い所に建物を作って監視員を置いて、敵の動向を察知する名目で築かれました。
しかし鉄砲が普及すると、特に城側が城内に井楼を立てて、そこに鉄砲足軽を配置し、外の敵を狙い撃つようになります。高い位置から低い位置を狙う狙撃は命中しやすいからです。
戦国時代の攻城兵器 8.釣井楼
釣井楼は台車の上に太くて高い柱を立て、その上に人が入れるような櫓を置いたものです。柱には足が掛けられるくぼみがついていて、兵士はこれを使って上り下りしました。井楼と違い、車輪がついていて動くので城攻めをするサイドも、釣井楼を城壁に近づけて、城内に向かい、鉄砲や火矢を打ち込むような使い方が出来ました。
戦国時代の攻城兵器 9.焙烙玉
焙烙玉は、元々は焙烙という鍋に似ているからつけられた名前です。陶器製の焙烙を二つ上下に合わせ、内部に火薬を詰めて、導火線を差し込んで火をつけ炸裂させて使用しました。焙烙には遠くに飛ばす為の紐がついているものもあり、導火線に火をつけてからハンマー投げの要領で振り回し城内に投げ込みました。
爆発力は大した事はありませんが、陶器の破片による殺傷や火災を誘発するなどの効果があったようです。
戦国時代の攻城兵器 10.仏狼機
仏狼機と書いてフランキと読みます。ヨーロッパの民族の1つ、フランク人の大砲が訛って仏狼機になったと考えられます。
いわゆる大砲の事で、これまで登場した攻城兵器では一番値が張りますし、大砲を撃つには火薬の配合や仰角に専門的な知識が必要なので、どんな戦国大名でも持っているという代物ではありませんでした。
破壊力は抜群で、別名を「国崩し」と呼ばれたのは有名な話です。
徳川家康が大坂冬の陣で備前島という小島に百門の大砲を集めて、日夜大坂城を砲撃し破壊力と轟音で大阪城の淀殿を精神的に参らせ和睦に持ち込んだのは有名な話です。
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戦国時代の攻城兵器 11.木砲
木砲とは、金属ではなく桜、楠、松のような水に濡らしても腐らない硬い樹木の内部をくりぬいて空洞にし作成した大砲です。木の大砲と言うと冗談のようですが、南海治乱記と呼ばれる書物に記載があるそうです。
それによると、大友家より伊予の河野通直へ大砲の製作法を伝えたものが鋳造技術が足りなかったので、通直は思考錯誤し、松の生木に穴を空けて周囲を竹で補強したものを海岸に並べて、攻め寄せた毛利水軍を攻撃し船を数隻沈めたのだとか。
もちろん、使い捨てですが、製造コストが安いので量産できるのが強みでした。ただ、威力もそれなりで仏狼機のようにはいかなかったでしょう。
戦国時代ライターkawausoの独り言
攻城兵器を見ると、日本の城塞が次第に頑強になっていく様子と、それを陥落させる為に攻撃サイドが知恵を絞り技術革新した様子がうかがえて面白いですね。
参考文献:図解戦国武将 池上良太著 大紀元社