関係が壊れた上杉氏と朝倉氏
越後の上杉氏と越前の朝倉氏は、加賀の一向一揆を共通の敵としていて、輝虎の父の時代からの盟友関係でした。永禄8年2月、朝倉氏は上杉輝虎に加賀攻めの共同作戦を提案し、輝虎は快諾しています。ところが、輝虎は関東情勢の悪化で共同作戦に参加できないままでした。
ここで、朝倉氏家中には、輝虎の約束破りを非難する声が上がっていたようです。ところが、今度は朝倉氏が将軍義輝暗殺の詳細な報告を出す事に手間取り、輝虎は激怒して使僧を派遣しています。朝倉サイドは、山崎吉家と朝倉景連が連絡が遅れた事を謝罪し、併せて再度、輝虎の加賀出兵について念を押した書状を輝虎の使僧に託しています。
しかし、今回の事で朝倉氏に不信を持ったのか他に理由があったのか?輝虎はまた加賀攻めをキャンセルしてしまい、両家の不仲は決定的になりました。コミュニケーション不足が、朝倉と上杉氏両家の不信を招いてしまったのです。
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戦国時代ライターkawausoの独り言
戦国時代の情報の錯綜の中には、少なからず事件の当事者や敵対者が撒いたデマも混じります。これは、意図的に周辺勢力を混乱させて、動きを封じ込める事を狙って、行われていたようです。
このような巧妙なデマを取り除き、周辺の情報を見比べて整合性を図るというのは、非常に難しい事だったのです。優柔不断と称される事が多い大名の中にも、こうして情報の真偽確認に手間取り、結果として勝機を失った人が多くいる事でしょう。
参考:戦国のコミュニケーション情報と通信 /単行本 /吉川弘文館/2020/1/29/山田 邦明 (著)