殺し間とは?明智光秀必殺の戦法は実現可能なの?

30/05/2020


mituhide-aketi-gun(明智明智は鉄砲の達人)

 

(ころ)()とは、漫画「センゴク」において明智光秀(あけちみつひで)が追撃してくる朝倉軍を殿で撃退した鉄砲戦術です。ようこそ殺し間へというバサラな明智光秀のセリフと共に有名になりましたが、史実準拠とされるセンゴクには珍しく、この殺し間は架空の戦術なのだそうです。

 

では、光秀の戦術、殺し間は実現不可能なのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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明智光秀の殺し間とは?

japanese-matchlock(火縄銃)

 

明智光秀の殺し間とは、細長い道の左右に鉄砲の射手を対角線上に配置、弾道が交差するようにして射撃し、誘い込んだ敵の部隊に壊滅的な打撃を与える戦術です。敵は前後左右から銃撃を受けるので回避のしようがなく、ハマってしまうと死体の山を築く事になります。

 

センゴクでは、金ケ崎の退き口で殿を信長から任された木下秀吉と明智光秀が2隊の鉄砲隊を出して協力して殺し間を実現し、主人公の仙石秀久が囮として一人で陣太鼓を叩き、朝倉軍の追手を十分に引き付け、殺し間で見事に朝倉兵を撃破しています。

鉄砲の射撃

 

センゴクではさらに、長篠の戦いでも、明智光秀が参加していた説を取り、武田軍に敢えて連吾川の西側陣地を突破させて、隘路に誘い込み、木柵を使った鉄砲の十字砲火、殺し間で武田軍を殲滅したような描写でした。ただ、先に述べた通り殺し間というネーミングも明智光秀が産み出したというのも史実では確認できず、漫画の上での創作です。

 

 

殺し間とは十字砲火の事である

 

実は、この殺し間は第一次世界大戦中にドイツが十字砲火として発明していました。ドイツ軍は、たった2(ちょう)の機関銃で十字砲火を実現しロシア兵の死体の山を築いています。

 

これを考えると、実際に存在したかどうかは別として、殺し間も実行可能なような気がしてきますね。しかし、どうして十字砲火という必殺の戦法は、およそ100年前の第一次世界大戦まで発明されなかったのでしょうか?

 

はじめての戦国時代

 

第一次世界大戦まで十字砲火が有効でない理由

Cannon(大砲)

 

そこには機関銃の発明が関係しています。一秒間に数十発の弾丸を撃ちだす機関銃を前にしては、どんな大部隊でも弾雨をかいくぐり敵陣に奇襲を仕掛けるのは不可能でした。事実、第一次世界大戦では機関銃が騎兵の突撃を無効にし、敵味方とも銃弾から身を隠す塹壕(ざんごう)を掘り、時々顔を出して敵陣に手榴弾(しゅりゅうだん)を投げ合うという膠着状態(こうちゃくじょうたい)となります。

 

やがて膠着状態の打開を狙い、鉄条網と十字砲火をくぐりぬける存在としてタンクが開発され、歩兵はタンクの背後に並んで十字砲火を突破しました。それまで何千年も戦場の花形だった騎兵は機関銃に引導を渡され、戦争の表舞台から消えていくのです。

 

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火縄銃で殺し間は可能か?

 

火縄銃は連発不可能なので、殺し間を行うとすれば、数十名の射手を揃える必要があります。狭い通路の左右に30名ずつを配置するとすれば一斉射撃で60発の弾丸が発射できますので、百名単位の敵なら十分防ぐ事が可能です。

 

しかし、この殺し間は、なかなかタイミングが難しい戦術ではあります。まず、手前の射手は狭い通路を進む敵兵をある程度やり過ごして側面から撃たないといけません。その前に発見されたら全てが水の泡です。また、殺し間は十字砲火なので対角線上には、味方の鉄砲隊がいます。

Ashigaru(足軽-兵士)

 

もし、弾丸が()れたら味方の鉄砲足軽に命中するリスクがあります。このように火縄銃による十字砲火は連発できず人数が必要なのでタイミングが取りづらく実際に成功させるのは辛いんじゃないかと思います。

 

籠城戦で採用されていた十字砲火

kakouei-tank(夏侯嬰と戦車)

 

実は籠城戦においては一足早く十字砲火が完成していました。日本では五稜郭(ごりょうかく)として有名な稜堡式城郭(りょうほしきじょうかく)がそれです。稜堡とは中世ヨーロッパで発展した城塞の防御施設のことで、星型に突き出した稜堡の正面と側面から射撃する事で死角をなくし十字砲火を実現します。これなら、敵の反撃を堅牢な土塁で防ぎながら十字砲火のポイントに入った敵軍を一方的に殲滅できるのです。

 

実は、日本でも戦国時代には、稜堡式城郭とまでは行かなくても、横矢(よこや)という側面攻撃の防御施設があったり、土塁上に折塀(おりべい)と呼ばれる塀を築いたりしています。折塀とは、直線上に伸びる土塁の所々をノコギリの刃のように折り曲げ、直線状に伸びる土塁に対し上部の塀を折り曲げて横矢を設けたもので、さらに進んで土塁自体をノコギリ刃のように折り曲げて、横矢をつけた屏風折(びょうぶおり)も存在しました。

 

屏風折で有名なのは松本城ですが、こちらは戦国時代の城です。このように、明智光秀ならずとも城の死角を横矢や折塀、屏風折でカバーして敵に十字砲火を浴びせる発想は戦国時代にはあったのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso

 

kawausoは、明智光秀の殺し間は、退却戦のような慌ただしい状態では、火縄銃の速射性の低さや、対角線上の味方に銃弾が当たるリスクから実現は難しいと思います。しかし、予め防備を固めた所に飛び込んでくる敵に十字砲火を浴びせる発想は、すでに松本城の屏風折のように戦国時代には確立していますから十分可能でしょう。なので、殺し間は実現可能、ただし籠城戦においてはというカッコ書きになるかと思いました。

 

文:kawauso

参考:センゴク 宮下英樹

 

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カワウソ編集長

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