戦国時代の切っ掛けを造ったとも言われる応仁の乱。
その要因としてよく挙げられるのが、足利義政の弟の足利義視と義政の正室の日野富子が産んだ足利義尚が9代将軍の座を狙って争った将軍後継者問題です。
アカの他人である夫の弟より、愛する我が子を将軍にしたいというのは、いかにも母親の願いらしく見えて、もっともらしいのですが、果たして本当にそうだったのでしょうか?
室町時代の感覚と現代の感覚は違う
足利義政との間にやっと授かった幼い我が子を将軍の地位に就けたいというのは、いつの時代も変わらない母の愛に見えます。しかし、室町時代の家族の概念と現代の家族の概念は違っていて、必ずしも富子が息子の義尚をなにがなんでも9代将軍に据えようと考えていたとは言えないようです。
例えば、足利義視の妻は、日野富子の妹の日野良子であり、2人の間には、後に10代将軍になる足利義材という子供が生まれますが、富子は妊娠中に妹の良子を義視に嫁がせていました。
これは、足利義視の権力基盤を強化する事に繋がり、富子には不利ですが、富子としては、生まれた子供が女の子だったり、流産した時に備え義視も日野家の勢力に抱きこんでおこうと考えたからだと考えられます。
日野家は代々、将軍家に娘を送り込んで跡継ぎを将軍に就けて勢力を維持していましたから、富子から見れば義尚が将軍職を継げなくても、妹の良子の子である義材が将軍職を継いでくれれば、それでよかったのです。
また、そうでなくても義尚は生まれたばかりで幼く、すぐに将軍として政務を執るのは無理で、どうしても中継ぎを立てる必要がありました。どうせ中継ぎを立てるなら、妹が嫁いだ義視の方が富子としても都合が良かったのです。
室町時代の西国には家族の観念は薄い
日本において、家という概念が誕生して父母と子供が一緒に住むようになったのは、室町時代であり、庶民においては江戸初期であるようです。それ以前はどうかと言えば、女性は結婚しても夫との繋がりは薄く、気に食わなくなればさっさと離縁して実家に帰りました。
子供が生まれていれば、男の子は夫の家とか、女の子は妻の家とか分けていました。現在のように家族は1つ屋根の下という概念がないので、子供に強く執着するという事もあまり無かったそうです。
そんなわけで、富子も義政の存在に縛られず、また義視に老後は食べさせてもらおうと考える必要もないので、日野家の血を引いた将軍が就任するならば、特に我が子が将軍にならなくても抵抗は無かったと考えられます。
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義視を排除しようとしたのは伊勢貞親
実際に足利義視を排除しようと考えていたのは、足利義政と疑似親子関係を結び、足利義尚の乳人(養育係)に就任していた幕府政所執事の伊勢貞親でした。
貞親から見れば足利義政が、後継者にする為に仏門から引っ張りだした義視が将軍に就任しすれば、苦労して義尚の乳人になり幕政に権力を及ぼす事が出来なくなりますからね。一方で富子は妹を義視に嫁がせ、応仁の乱の直前には、日野家の血を引く男子も生まれているのですから、義視を敵視する必要はありません。
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日野富子は義尚の死後、義材を推している
結果としては富子の子である義尚は、叔父の義視が西軍に出奔した事で、8歳で9代将軍に就任します。しかし、成人に近づくと、酒色溺れて健康を損ない、15年の在位の末、満23歳でこの世を去りました。
義尚には子供がなかったので、富子は足利義視の子である足利義材を、足利義政の養子として、1490年に10代将軍に就任させています。このように富子は義材に遺恨がなく、日野家の血筋を残す事を最優先に動いたとも考えられるのです。
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